本日はモーツアルトのピアノ協奏曲第20番(K.466、ニ短調)と、第21番(K.467、ハ長調)という同じ年(1785年2月と3月)につくられた曲を聴いている。
私が持っているCDは、内田光子によるモーツアルトのピアノ協奏曲全集。ジェフリー・テイトの指揮によるイギリス室内管弦楽団の演奏。1985年の演奏である。共につくられた翌日が初演だったから、作曲・初演から200年目の録音ということになる。
時期的には、双子のように生まれた曲だが、印象は対照的ともいえるほど違う。短調と長調の響きの特質、と言われたり、モーツアルトの性格の2面性という指摘もある。当たっていないとは言わないが、作曲者が自分の思いを込めた作品としてつくられるのは、ベートーヴェンの後期以降でもあることは忘れたくない。このモーツアルトがウィーンで初めて自立して一本立ちしたころの作品でもある。さまざまな作曲の技法を披露するための意味合いが強いふたつの曲という理解をしてきた。
しかし「さあ、さあ、どんな注文にも応じますよ」というカタログのような一面もあったということも忘れずにいたい。近代的な背景からさかのぼってだけ解釈しつくすのもまた危険なような気がする。
この年には私のお気に入りの弦楽四重奏曲「ハイドンセット」も作られている。
共に緩除楽章の第2楽章の美しさは特筆に値する。第20番の第2楽章はデモーニッシュと言われるほどで、私にはとても内省的な気分が味わえる。第1楽章の気分を引き継いでいる。第21番の第2楽章はのびやかな明るさがいい。剽軽さを感じる第3楽章のピアノのソロに繋がっていると思う。
実はこの内田光子の協奏曲のシリーズで最初に購入した曲である。その後映画「アマデウス」の最後の場面で流れていたのが印象的であった。私はこの映画にひきづられ過ぎたモーツアルト像には違和感がある。
本日夜のクラシック音楽鑑賞会はこの曲が取り上げられている。