二日目、とりあえず行きたいと思っていた金田城(かねだのき)跡を目指して、空港に戻ってからタクシーで登山口まで。城山(じょうやま、276m)の北部東面全体を石垣で囲んだ金田城は想像以上の広大な山城であった。頂上からは西にリアス式海岸の美しい浅茅(あそう)湾を望めるのだが、この頂上の尾根から東の奥まった湾までを囲むように石垣が巡っている。唐と新羅の連合軍が日本に押し寄せるという危機感から、東国より防人を大量に動員して築いた城のひとつなのだろうが、どうも私にはこの城の目的とするところが今ひとつわからなかった。
朝鮮半島から軍が押し寄せるとして、防備が調っていることの誇示ならば朝鮮半島を臨むことの出来る西の浅茅湾に向かって石垣を作ればいいはずだ。頂上の稜線に延々と続く石垣が残っており、樹林帯に隠れるように作ったのか、頂上の樹林を切って海から石垣が見えるようにしたのかは不明だ。しかし東斜面を海まで続く石垣は、その囲いの中に多くの兵を駐屯させ、海からの補給と出兵を可能にした砦という見方も出来る。軍事の知識がないだけに私にはわからないのでここら辺の解明も欲しいところ。しかもこの地点が他の地点と較べてどうして城の適地なのか、これも私にはよくわからない。
残された石垣の規模はとてつもない規模であるし、また積み上げ方も整然としてはいないのだがそれでも念入りな計画とくずれにくい積み方を熟知した時つに計画的なものであると素人の私にも直感できる。戦国時代の石垣のように隙間なく寸部の狂いもなく、というわけではなく対馬特有の頁岩の石の形をうまく利用した摘み方でかなり短期間で積み上げたと思われる。しかし今まで残っているのだから念入りな摘み方であることは間違いはない。そのエネルギーに圧倒された。
しかし百済という交流のあった国の滅亡に対応する方法として援軍の出兵という方法もあるのだろうが、またそのことによって大量の百済の人々が先進の文化を携えてきてくれたおかげで日本の古代国家の成立に大きく寄与してくれたことは充分理解できるが、国際感覚、戦いを避ける方途の模索という点ではこの出兵という選択は正しかったのだろうか。
白村江の戦いというのがあったとして、今でいえばそれは朝鮮の人々にとっては侵略になる。当然防衛の意識は高く、政策の選択としては決していいものではない。しかも敗戦で大量の人的・物的損害を出した上に、防衛のために防人というとてつもない人員の投入に費やした労力、民の疲弊、国力の投入は決して望ましい選択ではなかったはずだ。現にそれにより壬申の乱が勃発しこの介入戦争を主導した政権は倒された。当時の倭という未熟な国家の国際感覚の欠如が招いた悲劇である。
戦さというのは国を傾ける大きな原因なのだ。政権を担う人々に選択を誤ることは許されない。戦さは選択としては決してベストでもベターでもない、避けられるだけ避けたうえでの止むを得ざる選択でしかないことを肝に銘じなくてはならないと思う。
この金田城の頂上には日露戦争による対馬要塞化の一環として砲台が築かれた。対馬全体が砲台要塞化の中で島内のあちこちに砲台遺跡が残っている。ここの頂上に西側の朝鮮半島に向けて砲台が据えられた。そこに向かう軍道がつくられている。明治の近代軍備であるが、その廃れた遺構は古代の遺構よりもとても虚しく、脆いものに感じられる。しかも威力は数百倍はあるだろうが、古代の城砦よりも城砦の規模としては小さい。
日本の古代国家の成り立ちの頃の失敗と、近代国家の成り立ちの頃の選択の過ちの象徴のような遺跡が重なって存在している。感慨深い遺跡だ。対馬自体がさらに近世の中央集権国家の成立に際しての朝鮮への侵略という誤った選択の前線基地でもあった。政治体制の選択の誤りのたびにここの地がクローズアップされる。今もこの地は緊張が押し寄せてきている。
この金田城の復元発掘はよくできていると思う。説明板も完備され、説明も詳しい。だが、残念ながらここを訪れる人は極めて少ないようだ。私も2時間半かけて一周したが誰にも合わなかった。それゆえか道が荒れていて迷い易い。実にもったいない。これだけ遺跡の復元と説明板設置に費やした労力を生かさなければならないと感じた。戦さというものを実感できる数少ない遺跡である。沖縄も広島もつい最近の戦争の悲惨さを実感させてくれる貴重な場所である。ここもそんなことに思いをはせさせてくれるとても大切な遺跡だと思う。
タクシーの運転手のアドバイスで、午後からこの近くの白嶽(しらたけ、519m)に登っても夕方には登山口に戻ることができることを知った。タクシーでスーパーのあるところまで一端もどりパンと飲料水を購入して登山口へ。13時半に出発して16時に戻ることが出来た。タクシーはメーターを止めて待っていてくれた。
この白嶽、対馬の最高峰ではないが白い大きな岩が双耳峰として特異な形を見せている。地元の古くからの信仰の山として大切にされている。沢沿いの道から出発してなだらかな道から始まる。頂上までや約1.95キロの表示がありパンを食べながらハイスピードで登った。羊歯の若葉の緑がとても美しい。午前中の金田城での2時間でそれなりに疲れていたが、快調である。
しかし白嶽神社を過ぎると途端に登山道はきつくなってくる。この白嶽神社の鳥居には赤と白の大きな布が縛り付けられている。始めて見る習俗だと思った。さらにあと400mの標識では、頂上までの高度さも160mとある。これはかなりの急登と推察したとおりロープが張られなかなかののぼりだ。水天宮のあたりから深い樹林に囲まれているが本格的な岩稜帯。
「あと105m」の地点からはスリル満点の大きな岩との格闘。首から提げているカメラは邪魔なのでリュックにしまう。道の東側が鋭く切れ落ちて怖いこと。これは山慣れていないと厳しい。さいわい雨にはならなかったが風出てきて頂上からの戻りはとても怖かった。休むこともなくひたすらもと来た道をもどり16時にタクシーの待つ登山口に到着。コースタイム3時間半を2時間半で終わらせることが出来た。登山口に近い沢で上半身裸になり汗を拭いようやく一心地つくことが出来た。500m級の山と侮ってはいけない。スリル満点の頂上であった。
この白嶽に登って私は「やはり私の旅行のスタイルにはこの登山を抜きにしてはいけないのだ」とあらためて感じた。その土地土地の最高峰に登り、人々の生活や信仰のよりどころに登るということを忘れてはいけない。その土地に対する敬意というものだ。そして心地良い疲労感がうれしい。壱岐に行ったら低いとはいえ「岳の辻」に登らないとまずい、と決意をした。
この旅で不足だったのはあえて言わせてもらうと、地元の人々との親交ですかな。日程上、無理だったのかもしれませんが、偏屈だけど熱心な対馬の歴史家を訪ねてみるのもよかったかもしれません。タクシーの運転手さんが、氏の取材姿勢に好意的なのも良かったですな。対馬はこれからも重要な島であるのでしょうな。長い文章でしたが、飽きなかったです。
一葉は永遠性を得たが桃水の作品は忘れられた。文学の世界は非情ですね。
確かに長文でご迷惑をおかけしました。
二つに分けて、写真も入れました。
男女の関係や、親交のあった人を傷つけるようなことはないという意味で、口が堅かったようだというだけです。
なお、桃水と違い私はすごく口が軽いので反省しています。
はて、口が軽いとは初めてききました。そんな印象はなかったのですが‥。私のほうが軽いような‥。
それはそうと、金田城の写真の右2つが同じもののように見えますが、これは寄り眼で見ると3Dになる立体画像です。試してみて下さい。
明日にでも削除します。