昨晩は23時過ぎに横浜駅から少しばかり遠回りで歩いて帰宅した。いつもより時間にして10分位多めに、バスが通らなくなったバス通りに沿って歩いた。川沿いの道から急な登坂を経て尾根道に出る。いつも夜のウォーキングをする尾根道である。少し涼しくなったとはいえ、この急な上り坂で大汗をかいた。
歩いている途中でいくつもの蝉が道路上で短く鳴き、バタバタともがいているのを目にした。中には車道の真ん中でもがいている蝉もいた。車に無惨に轢かれる蝉も多いのだろうか。
家に着くとすぐに風呂場でシャワーを浴び、温めの浴槽で一息。深酒と軽いウォーキングの後はこれがわたしにとっての贅沢、至福の時間である。
本日の湿度は10時現在で58%、それほど低くはないのだが、暑さが少し和らいでいるので、気持ち的には「秋」、「初秋」を感じた。
ベランダには蝉が一匹(蝉は「頭(とう)」と数えるのだそうだが、どうもピンとこない)死んでいた。
午前中から昼にかけて、チラシの原稿をA4一枚作成予定。これを送信して本日の無償労働は終了。
★落蝉の眉間や昔見しごとく 山口誓子
クローズアップした蝉の貌。少年の頃に蝉取りをして見つめた蝉の貌を思い出したのだろうか。落蝉の貌は昔見たそのままであった、というのが句意である。だが、山口誓子だから、そこで終わらせているとも思えない。
以下、私の穿ち過ぎの勝手な解釈というか、印象を述べてみる。
成人してから蝉の貌を間近かで見ると、その相貌のごつさ、魁偉なつくりに驚き、そしてたじろぐ。ひょっとしたら普段知らない自分自身の存在の怖さに気がつくこともあるかもしれない。蝉の貌に自分の知らない怖ろしい自分を見てしまったのかもしれない。あっさりと「昔見しごとく」としるされているが、それは「見た」という動作が昔と今とで同じ、というだけだ。
今はもっと何か別のものを見出している。成人して、「怖さ」を知ったのである。その「怖さ」は人によって違う。読み・感じた人それぞれが「どきっ」とする戸惑いを作者がどこかでそっと覗いている。