その1の続き。
以下の抜き書きは、文章の書き方の手本として、写してみた。このように過不足なく、情感を込めた濃密な文章を書いてみたいものである。書き写すことで少しでもその文章の秘密に近づいてみたいと思う。
「自分でいい文章と思うものは書き写してみるのが一番、そうするとその秘密に近づく」というようなことを中学生の時に国語の教師に教わった。パソコンのキーボードでは「写す」ことにはならないが、それでも多少は勉強になるのではないかと思っている。
「図書9月号」16編のうち、12編を読了して今月は終了。
12.秋の蝉 朽木 祥
「かはたれどき、裏山から蜩の声が響き渡る。カナカナカナと一匹が鳴き始めると、たちまち何重もの声が唱和する。/鎌倉の山に移り住むまで、蜩は日暮れの客だとばかり思い込んでいた。‥‥。/横になったまま耳を傾けていると、くりかえしくりかえし唱和される蜩の声がしだいに心を澄ませて、この世のものならぬ声を聴いているような心地になる。まるで、地の深いところから解き放たれた小さな精霊たちが天に向かって駈け上がっていく足音のように聞こえるのだ。/初めて細い切通しに足を踏み入れたときに、聴こえてきたのも蜩の声だった。ああ、明け方のあの精霊たちだと、足を止めて耳をすませた。/澄んだ声が切り通しに反響し、天はたそがれて、日の名残りが断面に影を落とす。ふと蜩の声が止むと、あたりはしんと静まりかえる。」
「鎌倉は過去も現在も一緒くたになって、死者も生者もともに暮らしているような土地なのだ。住宅地にぽつんと重要な史跡が残っていたり、目には見えなくとも心をざわつかせる気配が漂っていたりするのである。」
「ジョイスの作品に『死者たち』という中編がある。ラストでは一編の雪から遥か西の台地へ、さらには天空にまで広がり、やがてまた一点に集中していく視点が描かれる。かつて英語で書かれた文章の中でも抜きんでて美しい。美しいだけではない。読むたび、どうしてこんなにも心を揺さぶられるのか、若い日には分からなかった。/「死」というものがずっと身近になり、自分の立つ場所の意味がいくらかはっきりし、長い時間の流れに連なる自分の生を意識するようになって、ようやく、少しだけ理解できるようになった。/この地点、この時間に生きることの意味と無意味が。この地点、この時間に連綿と存在するものの重みが。/遠い国のことを思い出したり、そんなことを考えるようになったのも、鎌倉の地、その光景からだった。/苔むした塚や切通しの地層は、今立っている場所と地続きの過去を思い起こさせる。永遠の前のほんの一瞬を私たちは生きているが、その一瞬一瞬が歴史の連なりを作っていることに改めて気づかされるのだ。」
返信が遅くなりゴメンナサイ。
私は映画については(も)経験がないので、感想が云えないですが、でもこんどレンタルで鑑賞に挑戦してみる気になりました。
「時間の中に生きる限界」、含蓄のある表現ですね。
ありがとうございました。
貴ブログ、時々訪問させてもらっています。
あまり、お役には立たないかと思いますが、これからもこのブログ、時々ご訪問ください。