Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「坂本繁二郎展」 その2

2019年08月28日 21時35分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等



 今回は「牛」3題。坂本繁二郎の「うすれ日」(1912)を第6回文展で夏目漱石の目にとまり「牛は沈んでゐる。もっと鋭く云へぱ、何か考へてゐる」と評した。このことは私のブログでも言及したことがある。あの辛辣な夏目漱石が褒めた、ということで坂本繁二郎のデビュー作といわれることもある。世間に注目されるようになったのである。
 当時西田幾多郎を評した鈴木大拙が「西田は‥牛らしいところはあつた。それは一筋に前方を見つめて進む漢だとの義である」と述べて、たゆまず努力し続ける人を評して牛にたとえることが行われた。そういう背景から漱石の評を理解してみると面白い。若い作家への励ましの評として読める。
 一方で私はこの絵がとても窮屈に見える。牛が見ている方向にすぐが画面の端である。うしろのしっぽのほうに木があり、さらに右に画面の端がある。わたしはこの作品を見るたびにどこか座りの悪い人形を見たような気分になった。牛だけが左右反対になって木に向かうと落ち着く。描かれた頭の方向が寸詰まりなのである。



 後の「海岸の牛」(1914)でも頭の方が狭いが、「うすれ日」よりも広い。しかも元は頭の方にあったという杭が後ろにきている。これによって右側が開け、お尻側の広い空間が杭によって縮まった。結果として牛の位置がとても座り心地のいい場所に収まっている。新たな杭の位置がとてもいいのである。牛が全体的に頭の方が白っぽく、それを反映するように草地と空もも右側が白っぽい。そして波の白は牛のお尻の方にだけ見える。
 これによって色彩の左右のバランスもまた釣り合いが取れている。この色彩の左右のバランスを確認するうえでは、牛の腹の下の紫と青の線形の影のような彩色と、左側の縦の杭の影のような紫の彩色も杭の影にしては太いのだが効果的だと思う。その計算が鼻につくかというと私はそうは思わない。ごく自然に受け入れられる。



 ヨーロッパに行く前の年に描かれた「牛」(1920、アーティゾン美術館)は、図録を見る限り1970年、2006年いづれでも私はこの作品を目にしている。しかし印象に残ったのは今回が初めてである。鑑賞眼がなかったということだと思う。
 この作品では左側の牛の尻尾の方は尻尾が一部描かれないほどに狭く、頭の方は少しひらけて、柏の木の太い幹がある。ヨーロッパの印象派の画家が浮世絵の構図に影響を受けたという、画面を縦に遮断する樹木を配置している
 坂本繁二郎のこれまでの、そしてこれからの作品とは異質なモノクロームに近い彩色である。しかしよく見ると柏の葉は実に色彩が豊かである。そしてそれに対抗するように牛が黒く、沈んで見える。色彩のバランスだけでなく濃淡によるバランス、構図上の安定などを工夫した画面に思えた。留学前のこれまでの総決算のような作品に思えた。ルドンが晩年に色彩を解放して華やかな画面になったように、色彩をため込んだような作品に思えた。
 この作品、これからもっとじっくりと頭の中で温めて、味わってみたいと思った。



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