Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

吉田秀和のベートーベン評

2020年12月09日 20時35分18秒 | 読書

   

 14時半ころに外に出かけて、往復8千歩ほど。歩いているうちに少し気分があらたまり、読書の意欲がわいた。古書店で今年4月に出たばかりの「ベートーヴェン」(吉田秀和、河出文庫)をゲット。昨年12月に出た「ブラームス」(同)も並んでおり、まったく汚れも読んだ形跡もない900円×2冊×1.1=1,980が合わせて400円というので即購入。途中のコンビニの広いイートインコーナーで「ベートーヴェン」をめくってみた。

  「(バックハウスのベートーヴェンのピアノ曲のレコードを聴いて)「これこそベートーヴェンの音だなあ」と声に出した。がちっとひきしまった音、筋肉質で、ぜい肉のない音、甘いとは正反対の、むしろ渋いというか、すっぱいというか、とにかく、それをきいただけで、「ああ、美しい!」と言いたくなるような響きとはまるでちがう音、きたなくて汚れているのとでは全然ちがうけれど、思わずふるいつきたくなるような、あるいはうとりと身を任せてその音の中に没入したくなるようなものとも正反対の、むしろ、それをきくと途端に目をさまして、注意深くあたりを見まわしたくなるような音‥‥。」(「ベートーヴェンの音って?」)

 「(パウル・)クレーはいつも何枚もの絵を同時に手がけていたそうである。‥あるときは、こちらの絵に向かい、それに幾筆か加えたかとおもうと、部屋の隅にある別の絵のところにいってそれと対決する、といった具合に。‥(ベートーヴェンの)「第三」「第四」「第五」という三つの大交響曲ではすべて、基本の楽想が共通しているのであり、しかもその根本の楽想なるものは、ベートーヴェンでは、言葉の徹底した、そうして全的な意味で「根本的」なのであって、それが全曲にわたって「基本」になっている。‥ベートーヴェンがこれらの作品の仕事を同時に進めていたことがわかるのだが、その要素も入れると、‥ほかのどんなな作曲家にみられるよりも、いろいろとちがう表現の相互の間での違いの幅が極度に拡がり、内容的に深まっている‥。(クレーの1922~1936の時期の作品には)根本的同時性と多様における単一性とか見える‥。壮年期のベートーヴェンが一つのモティーフでかいたといっても、その間の作曲家としての彼にはやはりある歩みがある。それと同じようにクレーの場合にも、静かなごく目立たない有機的な成長、かすかな重点の移動、ゆるゆやかな成熟といった言葉で呼びたくなるような、ある変化が認められる‥。
 クレーの最後の絵たちは死の象徴からそう遠くはないものになった。晩年のベートーヴェンの音楽は、このクレーの最後の四年間の絵とは、ずいぶんちがった世界のものである。だが、ベートーヴェンは神と死と孤独といったものに直面していた。この二人の芸術家の創造には、一つのモティーフの多様なメタモルフォーゼとしての創作という点では、まったく同じ事情が働いている。彼らの創造行為の根本的なところで共通点がある。それが私の関心を呼ぶのだ。
 ‥ベートーヴェンにしてもクレーにしても、‥内的なゆるやかな成熟というようなものだった‥。‥ところがクレーでは(ピカソとも違って1936年以降は)死は内部からくる。自分の肉体の中で行われる最も内密で、しかも非常な苛烈さと必然性をもって迫ってくる力、‥最も本質的な体験として、私たちの中から発酵してくるものとでもいったものとして受けとられ、私たちにはまた、クレーの晩年の絵を、そういうものとしてみるほかないのである。」(「クレーとベートーヴェン」)

 ここで少し私は保留をしておきたい。1936年以降のクレーの作品に死の影が色濃く反映するのは、自身の病という内的な必然でもあるが、同時にナチスというヨーロッパを席巻し、そしてヒトラーに「退廃芸術」と断罪され生命の危険にも直面したクレーの体験も考慮しなくてはいけないと思う。そこを抜きに晩年のクレーを語ってはいけないのではないか、ということは保留しておきたい。
 ベートーヴェンもまた、メッテルニヒの反動の時代の中でどの程度の生命の危険を感じたのかはまだこれから勉強したいと思うが、決して安穏とした晩年の政治的状況ではなかったはずである。だがしかし‥

ドビュッシーという人は恋の悲劇を扱った彼の唯一のオペラの中で、恋する男にたった一度「君を愛する」といわせ、女には「私も」ときこえるかきこえないかの声で囁かせるにとどめたくらい、言葉を大きく強調する使い方を拒絶した音楽家である。その人が、人類全体を兄弟のように愛し抱擁すると大合唱で絶叫させる音楽にはとてもついてゆかれない、と考えたのは、当然すぎるほど当然ではないか?そういう《人類愛》は彼には悲壮すぎ、観念的すぎて信じられなかった‥。」(「中国とベートーヴェン」)

 私はドビュッシーの音楽はこれまで何回も聴いたいとおもったが、いつも出だしをきいただけで挫折してしまう。それほど縁の無かった作曲家である。しかしこのエピソードは気に入った。このドピュッシーのベートーヴェン評は、まさしく十代のころからの変わることのない私のベートーヴェン評である。私はとても恥ずかしくて第九の合唱の渦に自分の身を置くことができない。
 



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