Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「図書3月号」から

2024年03月05日 22時15分06秒 | 読書

 「図書」で連載していた「写真に耳を澄ます」(竹内万里子)の写真論が5回で終了してしまった。わかりやすい文章でなのだが、短い引用が難しい。もっと連載が続き、お付き合いをしたかった。
 今回は、「見ることの始まりへ」という題である。内容はなかなか重い。

見る者を拒むイメージというものがある。それこそが稀にではあれ「見ること」を成立させる・・・。見る者を拒むイメージとは、簡単にその意味を理解したり納得したりすることができず、(見る側に)違和感のある経験をもたらすもの、と言い換えてもいいかもしれない。それゆえ「好き/嫌い」の範疇においては、後者の中に放り込まれる。そして胸の奥に、微かな疼きだけが残される。

土門拳は、徹底して被写体を細部まで凝視することを得意とする写真家だった。そんな彼の手を止めさせ、激しく動揺させた少年(広島の原爆病院で白血病の被爆者)のまなざしは、写真には残されていない。自らの色濃い死の気配の中で、同情を寄せるべき哀れな被写体として自分を固定化しようとする土門の強靭なまなざしに全身で抗ったのである。いわば被写体=客体として捉えようとする写真家=主体のまなざしを相手に投げ返し、自らが見る者=主体であることを束の間取り戻したのだ。

(アヴェドンの死に立ち向かう父親を撮影した作品について)この写真が放つ怒りの矛先がなんであるのか。それは私たちの他ならぬ生を容赦無く断ち切る死そのものであり、その過酷な現実を安易な物語へ回収して手懐けようとする我々人間だったのではないか。だからこそこの写真は、一度見たら忘れられなくなるほど強烈で、人を苛立たせる。



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