Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

絶望・希望・虚妄‥心が折れそう

2020年03月08日 21時03分20秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 優雅にドリップコーヒーを久しぶりに淹れて、マグカップで3杯のコーヒーを美味しく飲んだ。だが、てきめんに尿意を頻繁に催し、2時間の間に6回も駆け込んだ。
 コーヒーの利尿作用はこんなに強いものかとあらためて驚いた。家に閉じこもっていると余計に尿意を催すのだろうか。体を動かしていると汗などで出ていく水分は多いが、室内に閉じこもっている場合は体外に水分を出すのは尿しかないということなのか。

 ほぼ天気予報どおりに、17時半ころに雨が上がった。本日はまだ一歩も外に出ていない。気象庁のデータでは最高気温が8.3℃。横浜では冬の最中の気温である。
 夜のウォーキングが出来ればうれしい。

 スペインの歴史の入門書を読んでいるのだが、スペイン特有に猛威を振るった「異端審問所」の恐怖。これを見ているとスペインがイスラム勢力を駆逐し、ユダヤ人に強制改宗をさせることで成り立ってきた「キリスト教国」の「異端狩り」という暗い歴史にたじろいでしまう。それは近代以降にもつながるものでもある。
 そして日本もまた無縁ではない事態を近世以降体験している。多分現在もまだそれを克服していない。克服しようとしてきた努力を無効にする力が支配的になってしまっている。

 さて、70歳近くになって日本の暗澹とした政治・社会状況に面と向かうとは、何ともやりきれない。
 歳とともに自分の身の回りの状況に合わせて人生の希望は小さくなっていく。ささやかな希望をもって人生を歩んでも、そのささやかな希望も全部はかなえられない。「こんな小さな希望もかなえられないのか」という絶望感は、希望がかなえられないたびに逆に大きくなっていく。
 絶望も希望も、人生の具体的な時間の流れに従えば、虚妄でしかないと思い込んでしまうこともある。だが、時間の流れを身に引き寄せることが出来るのが観念というものを手に入れた人間である。人間の人間たる所以である。希望も絶望も、それなくしては人生は豊かになれない。逆に希望も絶望も語らない人は、残念ながら人生を捨てていないか。
 「絶望の虚妄なること、希望と相同じい」(魯迅、訳 竹内好)。暗澹たる気分になったときにいつもふと浮かんでくるのがこの言葉である。「相同じい」は「同じだ」ということだがニュアンスはもう少し強い。数学の=ではなく≡(合同)のような理解をしている。この独特の言葉で覚えてしまった。
 魯迅が当時の中国の、どのような状態にある若い人々に対して、どのような気持ちでこの言葉を綴ったのか、語ったのかはわからないところもある。だからこそそれぞれの局面でいろいろ解釈を許してもらえるのだろう。
 「人は、希望を持つときよりも絶望するときのほうが精神的に痛手は大きい。絶望がつらくてもそれは虚妄に近い。絶望に転化した希望そのものが小さい虚妄にすぎなかったはずだから、絶望だって人生の一駒としては大きなものではない」と切り返していた。組合員の若い人にもそのようなことを生意気にも言ってきた。
 この解釈が正しいのかどうかは、判らないが、わたしにとっては大切な解釈である。

 だが、いつまでも続くとこの心も折れそうになってしまう。
 



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