Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「古代の役所と地域社会」(横浜市歴史博物館)

2010年03月14日 23時10分44秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 14日は、横浜市歴史博物館に「古代の役所と地域社会-誕生!古代よこはまの郡家(ぐうけ)-」を見に行く。
 律令制度下の地方組織、国庁の跡や構成、国分寺・尼寺の位置の解明も不完全だが、郡家についてはさらに未解明。ようやく最近租庸調などの実質的な賦課と収納に関して実質的に取り仕切ったのが、郡であること、国司のように中央からの派遣ではなく、地域の支配層がなったこと、それは国造の系譜を引く者であったことなどが解明されてきているらしい。
 その意味で現横浜市域を範囲として具体的な郡家の跡の調査や、それに先立つ5・6世紀代の古墳群との関係を示唆した展示は興味深かった。これは無理なのかもしれないが、欲をいえば・6世紀代の古墳群と郡家との関係など、われわれ素人にももう少し整理された形で提示してほしかった。あるいは私の理解力がなく、展示だけで理解できなかったのかもしれない。
 今回の展示では郡庁の中では館が郡内に複数あったことは初めて知った。
 10世紀前半には郡家が解体したこと、それ以降「富豪の輩(ともがら)」が台頭し新しい「館」が現出すること、新しい郡の支配制度にかわり、兵の台頭へとつながる、とのエピローグで締めくくられていた。
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春の雪を聞く

2010年03月14日 11時57分51秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 9日の横浜も午後から雪まじりの雨となり、夜に本格的に雪となった。これも深夜23時頃には雨だけとなったが、音をじっと聞いていると、大体のようすがよくわかる。
 南関東地方、特に神奈川県の雪は微妙なところで雪になったり、霙になったりする。だから天気予報はなかなか当たらない。予報官も苦労していると察する。9日の雪も当初は「神奈川県東部は積雪になることはない」との予想だったが、しっかり雪となった。ただし、雨、しかもかなりの量の雨となったため、朝までには北側をのぞいてすっかり解けた。結果は予想通りということになった。
 天候が悪いとき、時に雨や雪の時は灯りを消し、息をひそめ、じっと布団の中で雨や雪の様子を聞くことにしている。灯りを消した風呂場、それもぬるい湯の中でならなおいい。
 9日23時半過ぎから10日の1時近くまで、電気を消して風呂につかっていた。団地の1階に住んでいる。外付けの風呂釜に2階より上の風呂釜から解けた雪の雫が強い風と雨に混じってボトボトとうるさいぐらいに落ちてくる。
 その音の合間に、芝生に白く積もった雪にぶつかる強い雨の音が聞こえ出した。道路に落ちる雨音も次第に音のボリュームを上げてきた。芝生と道路に落ちる音の区別は次第にはっきりしてくる。
 激しく降ると共に、積もっていた雪の量が少なくなり、さらに雪が解けることによって、直接路面に雨がぶつかる。その音が大きくなっていくようすで、雪の具合を察することができた。どの音も飽きることはない。
 横浜市内でも雪の多少は顕著だ。北部と南部、海沿いと山側とでの違いもあるし、丘が連なる横浜では、谷のむきによっても大いに様相が違う。仕事で雪の対策に駆り出されていた頃は、その地形によってさまざまな対応を考えたものだ。あるいはそれを体に覚えこませていた。
 しかし自宅で雪のようすをじっと聞いていると、そんなことはもうすっかり忘れている。微妙な音の違いを五感を研ぎ澄まして聞いている。 山で天候があるく小屋やテントで停滞しているときと似たような感じだ。このようにして昔(といってもほんの数十年前まで)の人は自然と向き合っていたのかと、あるいは今の私たちには想像もできないくらいにもっと敏感に向き合っていたのかと、想像している。
 観測手段の高度化による数々のデーターを蓄積し、解析技術を駆使し、超高度からの種々の映像も使って、自然のあり様が一方向から私たちに押し寄せてくる。これはこれで進歩だが、人間の動物的な勘、原初の昔から本能として蓄積してきた五感の判断を、退行させる方向につながる情報過信、情報依存が進むことに大きな危惧を感じている。
 どんなささやかなことでも、自分で情報を集め自分で判断する、自然をじっくりと観察し情報を得ることは、誰しもができるはずである。過剰な「手取り足取り」は決して進歩でも、サービスでもない。自立を妨げている場合が極めて多い。
 五感を澄まして自然を感じること、これは花や景色をめでることだけではなく、荒れる気象や自然現象全体に対する構えとして体得したいものだ。私の感覚も、それに基づいた判断もまだまだ一世代前の人にも追いつかないものがあると思う。今自然を相手に暮らしている人の足元にも及ばない。
 せめて嵐の夜は、まずはじっくりと気象現象を体感することを続けていくしかない。

今日の俳句 (100313) 松島

2010年03月13日 20時49分19秒 | 俳句・短歌・詩等関連
松島にて
★春日の出島の形の雲流る
★朝日さすまずは島からはだれ野へ
★遠目にもかすむ形は松の島
★田は海にさらに迫りぬ小糠雨
★小糠雨海より島が生まれ出づ
★島ひとつ田んぼ二枚の春の海
長谷川等伯展
★暗室に浮かぶ乱世の萩薄

 松島は海の際まで田がある。高さ3mほどの防潮堤がかなければ、隔てるものは畔一筋でしかない。
 田が海に迫っているのか、海が田に迫っているのか、人の歴史か、自然の造作か、受け取る感覚自体には差は無い。
 松島海岸を発つ前は雲間から朝日が射し、日矢も輝いた。松島に生える松は、島の起伏に沿って同じ高さにそろっている。松林の形をたどれば島の形が浮かび出てくる。
 松島を発ったのは朝9時、途中から小糠雨の中を単線で石巻を経由して女川へ。
 海が田の際まで迫るが波はまったくない。凪いだように、静かにたたずんでいる。ところどころにホタテの貝殻が糸に束ねられて白く放置されている。松島ならではの光景らしい。
 小糠雨に目を奪われて、近くの田に目が慣れていると、霞む奥から不意に小さな島が、田の鼻先に現れる。そんなことを繰り返すうちにいつの間にか海岸を離れ、石巻に。これから先の海岸線はリアス式。
 しかし静かな海の様子は変わりのないまま、女川に到着。
 春の雨の中、歩き回ることはあきらめ、港を見、昼食をとった。ここも先の津波が街中へ広がったという。駅前の町営の塩分の強い温泉につかり帰途に着いた。

本日は松島宿泊

2010年03月12日 22時13分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 出張で松島に来た。13時から18時過ぎまで缶詰め。雪の松島を見たい、という期待は見事にハズレ。昨日からの暖かい気温で、すっかりとけてしまったとのこと。
 初めて知ったが、見わたす限り島々の松は赤松ばかり。(-"-;)松茸は?と期待したものの、どうも残念でした!と軽くいなされたようだ。
 先日のチリ地震による津波被害は、宮城県で当初の4億円の想定が、牡蠣棚、ホヤ棚などの養殖施設被害が明らかになり、20億円以上とのこと。
 津波被害の怖さを再認識した。静かな海面上昇とはいえ、影響は大きい。
 この時期、景気動向や自治体財政への影響もはかりしれない。不透明感がさらに増す一因になる予想。東北全体の経済の地盤沈下に繋がらないよう祈るばかりだ。

久しぶりの丹沢と富士の眺め

2010年03月11日 14時35分22秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 一昨日の雪で全身白くなった富士と、丹沢らしい雪化粧の模様が、朝の空にキッチリおさまっている。実に久しぶりの光景だ。透き通った外気と適度な冷気を思い切り吸い込んだ。
 朝の目覚めの時にたまに耳にする鳥の声と、時計代わりのテレビニュースの音、これ以外には駅のホームまでは、音を自覚したことがないのではないか。そんなことを思った。
 最短の駅に向かうときも、ターミナル駅まで25分歩くときも、同じだ。帰宅の時も最寄りの駅ないしターミナル駅から、自宅まで音の記憶ははっきりしない。
 見る、という視覚の記憶はある。足元だけではなく、景色を自覚的に眺めている。交通上の危険回避の点からは視覚と聴覚は必須だから、聞くとはなしに聴覚は働いているとはおもう。 聞こうとすればいろいろの音はあるはずだ。鳥・風・葉擦れ、犬・猫、子供、靴音・衣擦れ…。
 これらの音はウォーキングでは結構自覚的に聞いている。
 聞こえてこないのは、朝だから体が目覚めていないのか、そして夜だから体が疲れて聴覚まで衰えているのか。慣れきった道や行いでは、自覚的で意志的な感覚は後退すると何かで教わったような気がするがこれに該当するのだろうか。

 もう一つの現象は、朝駅の構内に入った途端に、二つの騒音に悩まされることだ。女性の靴の大きな音と、イヤホンの音。いずれも私の身体が持つ固有のリズムと一致しない。例えば一致しても身体のリズムは微妙に変化するから一致することは有り得ない。
 あの音が暴力でないとしたら、なにをもって暴力というのか。私はあの仕掛けを商品化した者、組織は信用できない。
 よしんばそれが不可避な過程であっても、車内規制に本腰を入れない鉄道・バス事業者は信用できない。 感覚というものは慣れれば慣れるだけ余計強い刺激を求める。感覚は麻痺してくる。音は強い音を求める。生理的な害を考慮しないシステム開発、商品化も害悪ではないだろうか。

 私が人間嫌いだから、あるいは人間関係に疲れているから、このように過敏とも思われる拒絶反応を示すのかもしれない。

 気持ちが解放されているとき、ゆとりがあるとき、登山の時、ウォーキングの時は、視覚と聴覚だけでなく他の感覚も総動員している。それを全身で受け止めている。

 そして職場に近い下車駅のホームに降りると、電車の音と共に、街路時の枝や葉の音、鳩・雀の声、風の音などが、バスや車の音以上に、一斉に飛び込んでくる。仕事モードに切り替わるのかもしれない。

自句自解(16) 人無き街

2010年03月10日 06時53分28秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 仙台・魯迅記念館跡にて
柳絮舞う魯迅を学びし森の道
黒南風や人無き街にジャズ流る
西日中列車はわが影切り裂きぬ
 三度目の投薬入院
病棟の視線を集め夏の蝶
       
 この頃は俳句を作るといっても、ひとりでパソコンに向かいながらひねくりまわし、こねくりまわしていたていた。投句の期限が来るのが早くてどうやって作っていいやら、どんな句がいいのか、さっぱりわからなかった。(むろん今でもわからないが‥。)
 今、省みて、どうにかこうにか形になったと思われるものを持ってきた。旅先や散歩のあとの印象、三度目の投薬入院の時の句である。
 一句目、学生時代の仙台、その頃は森の道の奥に木造の魯迅記念館が訪れる人もない閑静な場所にあり、よく訪れた。ちょうどその頃、岩波書店から新書と同じ大きさで13巻の魯迅選集が出版され、毎月の出版が待ちきれずにむさぼり読んだ。学生運動の最高揚時の後退局面・敗北局面で、何かにすがるように読んだ。仙台での5年間を思い出すように、今は魯迅記念館はなくなっているが、昔の散歩道を歩いていると当時は気付かなかったが柳の木があり柳絮が待っていた。当時は自然をじっと観察する心のゆとりはなかった。花を見ても、目に映るだけだったのだろう。
 二句目、横浜でも地域の商店街ではシャッター商店街が増えている。さまざまな催しなどを企画しても人は集まらない。まして梅雨時など雨の季節はなおさら。街灯のスピーカーからの音楽も寂しさを誘うだけである。黒く厚い雲に覆われた空と重苦しい飾り付けの商店街がいまだ目に浮かぶ。
 三句目、二回の入院にもかかわらず完治せず、三度目の投薬入院を勧められたときの憂鬱な気分を反映している。蒸し暑い西日に照らされた駅のホームで、轟音と共に通過列車が通り過ぎたとき、投薬での眩暈を思い出した。我が身を切るように列車の影が鋭く西日をさえぎった。打ちのめされるような思いがした。
 四句目は入院手続きのため、病棟でガラス窓の外を眺めていたときにつくった。元気に不規則に外の大きな木の周りを飛ぶ蝶は、夏の暑苦しい日差しをものともせずに、勢いがあった。私と同じように幾人かがじっとその蝶の飛ぶ様を見ていた。
 晩夏、秋口といってもいい時期だったが、病棟の人々は皆無口で、重苦しかったことを鮮明に覚えている。私も二週間、毎食後の投薬のたびに訪れる眩暈からできれば逃げ出したかった。味覚もなくなり、流し込むように食事をとり、そして眩暈や吐き気をこらえ、長い一日を重ねるのだ。こんな憂鬱な思いが蝶を見つめる視線の後ろにあった。
 

長谷川等伯展感想(4)

2010年03月09日 00時21分33秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 NHKの日曜美術館で長谷川等伯を放映していた。
 私の気に入った波濤図と小さい画面の仏涅槃図、十六羅漢図等は取り上げられなかったのは残念ではあった。特に波濤図は…。しかし好みの問題だからそれはやむを得ない。
 テレビの画面では、色も線も実際より鮮明に見えた。私の視力の所為か、照明の具合か…。会場の一般用の照明と、撮影用の照明の差ではないだろうか。
 楓図の褪色はテレビ画面でもはっきりと確認できた。それでも私たちに大きな迫力を感じさせるのだから、修復を心から期待したい。右側にもっと伸びやかに画面があったはずだから、左側の空間が相対的に小さくなり、迫力を増し、大きな空間があらわれるとおもう。何よりもバランスがよくなる。楓の古木が全体に占める割合が大きくなるはずだ。そして左の楓の葉が少ない部分が小さくなるが、川と思われる濃い青の三日月形の部分があるために釣り合いが取れるはずだ。
 NHKの解説ではそこにも言及して欲しかった。松林図も同じだ。等伯は、というか安土・桃山の芸術というのは、実に大柄でかつ繊細なものであったと、今回認識を新たにした。色彩だけでなく構図上のバランスからも、現代の視点で見ても理にかなったものではなかったかと思う。


昨日の俳句 (100307) 春時雨

2010年03月08日 07時55分50秒 | 俳句・短歌・詩等関連
ようやくに雀二三羽春時雨
水墨のからすも動かぬ春時雨
あてどなく北への切符春時雨

 昨日は三日前とは違い、寒い雨。団地の南側の芝生の庭にいつも来る雀の一家や鳩、カケスなどの群れはやってこなかった。いつもの土・日は雀のさえずりかカラスの声で目覚めるのだが。突然これだけ気温が下がると、鳥も動きが鈍くなるのだろうか。
 午後から仙台への出張の切符を購入しに行ったが、列の前の人は、旅行に慣れていないのか、窓口で行き先の選定も含めて迷っていた。不思議と東北への行程にこだわっていたことが伝わってきた。
 私もどちらかというと、無意識に東北・北海道を旅先に選ぶ。横浜より南・西には住んだことがない。少年期前半と青年期後半を東北・北海道で過ごしたためであることは間違いがない。
 人も物も、味も言葉も、気候も植生も、歴史も景観も、惹かれる。そして現在のさまざまな変化を許すことができる。むろんそれらのすべてを熟知しているわけではない。逆にそれらのすべてを知りたくなる衝動に駆られる。
 東北と北海道、決して一体ではない。網野善彦氏の言及にあるとおり、中央からの疎外では、似ていていたが、かえって中央との距離のとり方では反発しあうことが歴史的にはあったとの指摘がある。私も同感である。
 中央から見れば、地続きの東北を征服するために北からの力を利用したり、蝦夷の勢力をけん制するために東北の人々を狩り出したり、結果として両者の対立をあおりながら日本という国は北海道までその版図を広げた。明治以降、現在までも、その政策のあり方からすれば、その基本は変わらないものがあるとおもう。
 しかし自然、特に冬の気象の厳しさ、森の豊かさからすれば文化の共通基盤はある。それが多くの人にとって、懐かしさであり、ぬくもりであり、人生の転換点での内省のよりどころであることが、私には論理ではなく体感として了解できる(できるように思う)。
 そんなことを思いながら、順番を待っていた。

自句自解(15) 野辺送り

2010年03月07日 17時37分10秒 | 俳句・短歌・詩等関連
閉じし目も春日を浴びて光る朝
苦けれど通夜の語らい蕗の薹
担えれば棺の軽し梅二月
野辺送り梅の遅速を見落として

 これらの句は、2003年2月、大変世話になった叔父の葬儀での句。私の俳句の多くは、親族や先輩友人の死に際してのものとなった。たまたま俳句を作るようになってからそれらのことが続いたに過ぎない。
 しかし俳句は、私にとっては死や別れに際して万言を連ねての弔意よりも心を込めることができるように思う。むろん他の方にはまた別の弔意の表し方があるのは当然だが‥。
 はじめの句は、亡くなったばかりの安らかな顔を心にとどめようと思って作った。
 二句目、通夜の席に出された料理は葬儀場の手配によるものであったが、私には出来合いのものとは思えない、季節にあった丁寧なものと思えた。親戚一同、故人に感謝しながらありがたく頂戴した。
 三句目、生前体格はがっちりされていたが短期間の入院にもかかわらず、思いのほか棺が軽かった。発病からのつらさにも思いをはせ、感慨ひとしおであった。
 四区目、火葬するまでの間、梅が手向けのように沿道に咲いていたのは気付いたが、それぞれの梅の状態を記憶するゆとりはなかった。多くの梅が咲いていたことだけは記憶している。また火葬場でも戻ってきた葬儀場でも控えめに梅が咲いていた。

今日の俳句 (100306) 春の雨

2010年03月06日 23時32分52秒 | 俳句・短歌・詩等関連
☆傘開く列は乱れず春の雨
☆階(きざはし)の角の丸みも春の雨
☆春の雨並ぶ鳥居に朱が映える
☆春の雨子等の歩みに色を添え


久しぶりの俳句、どうも陳腐というか、目のつけどころが安直といわれそう。

頭の天辺から芽が出そう

2010年03月05日 12時49分37秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 20℃の予想。頭に芽どころか桜の花が咲きそう。とはいっても朝からまたもダウン、寝不足が続いたためか…背中の鈍痛。10時半にはおさまり、出勤開始。駅に着いたときは汗が流れ落ちた。
 啓蟄の頃になったと思うが、我が家ではゴキブリが今朝出たとのこと。ノロノロとしていて妻に簡単に取り押さえられたようだ。
 団地の一階のためゴキブリが時々訪問にくる。大概は妻が「御用御用」とばかり、大騒ぎをしながら取り押さえるが、それでも年末の大掃除の時に、干物になり果てたものが、時折家具の後ろなどから出てくる。腐らないのは殺虫剤の為か。我が家では「ホウ酸団子」なるものをいくつか置いてある。効果があるのかどうかはわからない。
 どうも夜中に新聞受けの隙間から入ってくるらしい。投函物は残さないようにしているが、時々寝てから宣伝物を投函され、隙間が空いている。そこから侵入するようだ。
 以前住んでいた三階ではまず入って来なかったから、飛翔は高さ5メートルが限度か。夜中に歩いているとたまにその飛翔に出くわす。人の背丈ほどのところを飛んでいる。なかなか豪快な飛翔だ。そして壁に衝突して地面を早足でどこかに行ってしまう。
 今年はゴキブリには訪れて欲しくない。

不意の懐かしさと、中途半端な感想

2010年03月04日 13時59分20秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日もどんよりと寒い。通勤途上で車窓から見る景色もくすんでいる。
 天候と気分は相関するといわれる。しかし、当然ながら反対の時もある。
 今朝、車窓の鈍色の雲の下のくすんだ空気の先に白い工場の建物群を見ているとき、ふと懐かしさ、暖かさの奥に吸い込まれる感覚を味わった。
 煙突から立ち上がる白い水蒸気、草が枯れ砂利ばかりの空地。見慣れてはいるが懐かしさが涌くというものではない。殺風景な感じすらする。
 吊革に掴まりながらボーっとしつつも妙に気になった。昼になってようやく気がついた。中学一年の時、3ヶ月だけ市電を利用して通った路線と重なる個所であった。46年も前の風景と、あまり変わらないコンビナート風景だ。無論設備も建物も変わっているが、崖下の海辺の埋め立て地という基本は変わりない。
 記憶の下からふと意識の表面に出てきたのかもしれない。
 昔の通学路と重なる部分があることは承知をしていたが、あらためて認識させられた。
 公害という言葉はなく、発展の象徴として、当時は煙ももっと多く、煙突も多かった。中学一年生として社会事象に興味が行くこともなかった。それでも決して良い印象を持った訳ではなかった。
 エネルギー効率も格段に良くなったらしいコンビナートはこの異変の冬空でも生き続けている。たくましさに驚いた。
 同時にそれ以降マイナスのイメージを植え付けられたらコンビナートの風景が懐かしさと温もりの引き金になったことに驚いた。
 そこに働いた人々のことを捨象したマイナスイメージというのは誇れたことではないが、プラスイメージにしても働く人々のことはやはり捨象したものであることも確かだ。
 人が働くということに関わり続けた35年が無駄ではなかったとしたら、当時から今日までの人の働いていた場所であること、殺風景であっても人の匂いを感じたことが懐かしさ・温もり感が湧いた根拠となっていたら、私の35年も捨てたものではないと、ひとりで勝手に合点してみた。

自句自解(14) 一輪

2010年03月03日 06時33分35秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★元日や街を静める寺の鐘
★初日の出かもめかすめる白灯台
★大寒や火のなき部屋も昏れんとす
★小寒や赤き芽の木のリンと立つ
★冬オリオン街に明かりを滴らす
★葉を打てる音の高鳴り霰降る
★寒木瓜の小さき一輪赤き一輪
 このような句を並べると、やはり自分でも未熟なんだな、と感じる。それぞれに添削をしてもらっている。添削前の句を見ると、このような句に付き合ってくれるのだから、俳句誌の主宰というのも大変なのだなと今更ながら思う。また病気の時の衝迫力がなくなると、自分のことながらこうも力がなくなるのかなとも感じる。
 それらの句の中でもとりあえずよさそうなのを引っ張り出してみた。
自分なりに今でも好きなのは、「冬オリオン」「霰降る」「寒木瓜」の三つの句だ。
 はじめの句、私としては除夜の鐘ではない。毎朝日の出直後に聞こえてくる寺の鐘の音が、人通りのいない町に軽い掛け布団のように覆いかぶさってくるのを句にしたかった。
 「火のなき部屋」の句はあくまでも時の移ろいの結果に着目しての句である。読書に夢中になっていて気づいたら日が落ちて寒かったことを詠んだ句だ。乏しかったころの回想の句ではない。
 「小寒や」の句は「リンと」がいけない。しかしいい語が出てこないので、恥をさらすようだがこのままにした。
☆小寒や赤き芽の木のまっすぐに
 多少はよくなったのかな?とは思うが‥余りに平凡でもある。
 あとの3つの句は、素材も形もとりあえず私なりには満足している。

本日までの読書

2010年03月02日 06時39分43秒 | 読書
★「図書3月号」(岩波書店)読了。
①「なにもないことの豊かさ」(原研哉)
 「(室町幕府8代将軍義政の治世下、京都が焼かれる応仁の乱以前)それまでの日本の美術・調度は決して簡素なものではなかった。‥日本は案外と絢爛豪華な文化の様相を呈してきていたはずである。‥それらの文物を集積してきたメトロポリス京都の消失を目の当たりにした人々の胸にどのようなイメージが渦巻き、どのような達観が生成したかは今日知るよしもない。‥究極のプレーン、零度の極まりを持って、絢爛さに拮抗する、まったく新しい美意識の高まりがそこに生まれてきたのではないか。渡来の豪華さの対極に、冷え枯れた素の極点を拮抗させてみることで、これまでにない感覚の高揚を得ることができたのではないか。なにもないこと、「エンプティネス」の運用がこうして始まる。そういう美学上の止揚あるいは革命が、応仁の乱を経た日本の感覚世界に沸き起こったのである。」
②「無地のネクタイ2」(丸谷才一)
 「文章論及び文体論を視野に収めた『昭和批評史』を書いてくれないだろうか。そこではたとへば吉田健一の『文学概論』など、きわめて重要な位置占めるはずである。」

★「越境の古代史-倭と日本をめぐるアジアンネットワーク-」
(田中史生、ちくま新書)読了。
 「かくも様々な不安定要素を抱える国際交流の世界にあって、そのあり方や歴史を規定する要因は、政治で関係から個々の人間関係にいたるまで、極めて多様で多層的に複合的であった。‥交易者たちが、海域と接する一国政治から解き放たれていたというわけではないし、政治的に管理された“交易港”が健在だったからといって、政治的管理が貫徹していたと判断することもできない。古代人は、互いをつなぐ驚くほど多様な社会的装置を持ち、それを駆使し、使い分けて、越境的なネットワークを変形させていた。それはどこの国の歴史にも専属せず、それでいて様々な国の歴史の影響をまともに受ける。」
 「帰化」という不明確な規定が、不明確な言葉が日本の国籍をめぐって生き残っている。すでに「帰化植物」「帰化生物」などという言葉は適切でないとして「外来…」になっているが、法律で人間を扱う場合にこの言葉が厳と存在している。
 この言葉の概念が白村江を契機とした日本の天皇制という国家成立までさかのぼることを示唆してくれた。