Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

久しぶりの丹沢と富士の眺め

2010年03月11日 14時35分22秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 一昨日の雪で全身白くなった富士と、丹沢らしい雪化粧の模様が、朝の空にキッチリおさまっている。実に久しぶりの光景だ。透き通った外気と適度な冷気を思い切り吸い込んだ。
 朝の目覚めの時にたまに耳にする鳥の声と、時計代わりのテレビニュースの音、これ以外には駅のホームまでは、音を自覚したことがないのではないか。そんなことを思った。
 最短の駅に向かうときも、ターミナル駅まで25分歩くときも、同じだ。帰宅の時も最寄りの駅ないしターミナル駅から、自宅まで音の記憶ははっきりしない。
 見る、という視覚の記憶はある。足元だけではなく、景色を自覚的に眺めている。交通上の危険回避の点からは視覚と聴覚は必須だから、聞くとはなしに聴覚は働いているとはおもう。 聞こうとすればいろいろの音はあるはずだ。鳥・風・葉擦れ、犬・猫、子供、靴音・衣擦れ…。
 これらの音はウォーキングでは結構自覚的に聞いている。
 聞こえてこないのは、朝だから体が目覚めていないのか、そして夜だから体が疲れて聴覚まで衰えているのか。慣れきった道や行いでは、自覚的で意志的な感覚は後退すると何かで教わったような気がするがこれに該当するのだろうか。

 もう一つの現象は、朝駅の構内に入った途端に、二つの騒音に悩まされることだ。女性の靴の大きな音と、イヤホンの音。いずれも私の身体が持つ固有のリズムと一致しない。例えば一致しても身体のリズムは微妙に変化するから一致することは有り得ない。
 あの音が暴力でないとしたら、なにをもって暴力というのか。私はあの仕掛けを商品化した者、組織は信用できない。
 よしんばそれが不可避な過程であっても、車内規制に本腰を入れない鉄道・バス事業者は信用できない。 感覚というものは慣れれば慣れるだけ余計強い刺激を求める。感覚は麻痺してくる。音は強い音を求める。生理的な害を考慮しないシステム開発、商品化も害悪ではないだろうか。

 私が人間嫌いだから、あるいは人間関係に疲れているから、このように過敏とも思われる拒絶反応を示すのかもしれない。

 気持ちが解放されているとき、ゆとりがあるとき、登山の時、ウォーキングの時は、視覚と聴覚だけでなく他の感覚も総動員している。それを全身で受け止めている。

 そして職場に近い下車駅のホームに降りると、電車の音と共に、街路時の枝や葉の音、鳩・雀の声、風の音などが、バスや車の音以上に、一斉に飛び込んでくる。仕事モードに切り替わるのかもしれない。