Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「古代の役所と地域社会」(横浜市歴史博物館)

2010年03月14日 23時10分44秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 14日は、横浜市歴史博物館に「古代の役所と地域社会-誕生!古代よこはまの郡家(ぐうけ)-」を見に行く。
 律令制度下の地方組織、国庁の跡や構成、国分寺・尼寺の位置の解明も不完全だが、郡家についてはさらに未解明。ようやく最近租庸調などの実質的な賦課と収納に関して実質的に取り仕切ったのが、郡であること、国司のように中央からの派遣ではなく、地域の支配層がなったこと、それは国造の系譜を引く者であったことなどが解明されてきているらしい。
 その意味で現横浜市域を範囲として具体的な郡家の跡の調査や、それに先立つ5・6世紀代の古墳群との関係を示唆した展示は興味深かった。これは無理なのかもしれないが、欲をいえば・6世紀代の古墳群と郡家との関係など、われわれ素人にももう少し整理された形で提示してほしかった。あるいは私の理解力がなく、展示だけで理解できなかったのかもしれない。
 今回の展示では郡庁の中では館が郡内に複数あったことは初めて知った。
 10世紀前半には郡家が解体したこと、それ以降「富豪の輩(ともがら)」が台頭し新しい「館」が現出すること、新しい郡の支配制度にかわり、兵の台頭へとつながる、とのエピローグで締めくくられていた。
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春の雪を聞く

2010年03月14日 11時57分51秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 9日の横浜も午後から雪まじりの雨となり、夜に本格的に雪となった。これも深夜23時頃には雨だけとなったが、音をじっと聞いていると、大体のようすがよくわかる。
 南関東地方、特に神奈川県の雪は微妙なところで雪になったり、霙になったりする。だから天気予報はなかなか当たらない。予報官も苦労していると察する。9日の雪も当初は「神奈川県東部は積雪になることはない」との予想だったが、しっかり雪となった。ただし、雨、しかもかなりの量の雨となったため、朝までには北側をのぞいてすっかり解けた。結果は予想通りということになった。
 天候が悪いとき、時に雨や雪の時は灯りを消し、息をひそめ、じっと布団の中で雨や雪の様子を聞くことにしている。灯りを消した風呂場、それもぬるい湯の中でならなおいい。
 9日23時半過ぎから10日の1時近くまで、電気を消して風呂につかっていた。団地の1階に住んでいる。外付けの風呂釜に2階より上の風呂釜から解けた雪の雫が強い風と雨に混じってボトボトとうるさいぐらいに落ちてくる。
 その音の合間に、芝生に白く積もった雪にぶつかる強い雨の音が聞こえ出した。道路に落ちる雨音も次第に音のボリュームを上げてきた。芝生と道路に落ちる音の区別は次第にはっきりしてくる。
 激しく降ると共に、積もっていた雪の量が少なくなり、さらに雪が解けることによって、直接路面に雨がぶつかる。その音が大きくなっていくようすで、雪の具合を察することができた。どの音も飽きることはない。
 横浜市内でも雪の多少は顕著だ。北部と南部、海沿いと山側とでの違いもあるし、丘が連なる横浜では、谷のむきによっても大いに様相が違う。仕事で雪の対策に駆り出されていた頃は、その地形によってさまざまな対応を考えたものだ。あるいはそれを体に覚えこませていた。
 しかし自宅で雪のようすをじっと聞いていると、そんなことはもうすっかり忘れている。微妙な音の違いを五感を研ぎ澄まして聞いている。 山で天候があるく小屋やテントで停滞しているときと似たような感じだ。このようにして昔(といってもほんの数十年前まで)の人は自然と向き合っていたのかと、あるいは今の私たちには想像もできないくらいにもっと敏感に向き合っていたのかと、想像している。
 観測手段の高度化による数々のデーターを蓄積し、解析技術を駆使し、超高度からの種々の映像も使って、自然のあり様が一方向から私たちに押し寄せてくる。これはこれで進歩だが、人間の動物的な勘、原初の昔から本能として蓄積してきた五感の判断を、退行させる方向につながる情報過信、情報依存が進むことに大きな危惧を感じている。
 どんなささやかなことでも、自分で情報を集め自分で判断する、自然をじっくりと観察し情報を得ることは、誰しもができるはずである。過剰な「手取り足取り」は決して進歩でも、サービスでもない。自立を妨げている場合が極めて多い。
 五感を澄まして自然を感じること、これは花や景色をめでることだけではなく、荒れる気象や自然現象全体に対する構えとして体得したいものだ。私の感覚も、それに基づいた判断もまだまだ一世代前の人にも追いつかないものがあると思う。今自然を相手に暮らしている人の足元にも及ばない。
 せめて嵐の夜は、まずはじっくりと気象現象を体感することを続けていくしかない。