久しぶりに喫茶店で読書タイム。あまり進まなかったが味わい深い論考を楽しく読んだ。「万葉読本Ⅱ 万葉の歌びとたち」の第1章の「額田王のなぞ」までを読み終わった。

「いまも生きる万葉びと――序にかえて」より引用。
「ちょっとした「万葉ブーム」である。しかしその合い言葉が「万葉は心のふるさと」となり、万葉集がそれだけのものになってしまうのは困る。万葉集を、遠い風景をうっとりとながめるようにみるのは、むしろ間違いだろう。万葉集には、もっと強烈な本質がある。万葉びとは古代人なのだが、時代を超えて、現代のわれわれと生を共にすることのできる、まさに生きている人々であって、読者は、彼らの生の重みと共に生きるのでなければ万葉集を不滅の古典と呼ぶことはできない‥。「万葉は心のふるさと」などというキャッチ・フレーズをきびしく拒否する万葉歌人のひとりとして、山上憶良がいる。彼は朝鮮半島の人だったらしい。‥」
山上憶良の出自に対しては、歴史学からの批判があるようだ。どちらが正しいのかは解らない。私には中西進による憶良の歌の解説はとても魅力あるものに思える。
「万葉びとたちの、まぎれもなく生きて来た姿、その詩人としての表現行為、それを知ることにこそ、万葉集の古典としての意義がある‥。‥彼らの詩の中には、日本文化の原質となるようなものもあるが、なお今日にも生きている、不変のことばもある。つねに今日に語りかけるところに古典の価値があるのであって、万葉集を牧歌的なロマンの霧に包んでしまってはいけないと思われる。」
私たちが古典作品を読み、理解しようとするときに陥る陥穽のようなものに対する警告でもある。どんな場合にも心しておきたい警告に思える。
初出を見ると、「序」は1971年、「女性歌人」と「額田王」は1975年に発表されている。いづれも私の学生時代である。しかし当時は名前は知っていたが、読むことはなかった。しかし万葉集の解説を30代に読み始めたときには入門書を幾冊か読んだ。さらに安倍政権による憲法解釈変更への批判的態度に触発されて、いっそう注目するようにはなった。「国家」感は私とはかなり違うと思うが、万葉集の解釈にはおおいに勉強させてもらっている。
