≪「ザルツブルグ」という街≫②
「シュターツ橋」を越えた南側一帯は旧市街だった。
最初に「モーツアルトの生家」が建つ場所へ行った。独特の黄色い色をした建物の4階部分に1747年からモーツアルトの父母が住んでいたという。
父「レオポルト」と母「マリア・アンナ」の間には7人の子どもが生まれたが、成人したのは4番目の女児ナンネルと末子のモーツアルト(1756年1月27日生まれ)の二人だけだったという。
音楽教育者でありバイオリンニストで、当時、ザルツブルグの宮廷音楽家だった父は、早くからモーツアルトに天才振りを見出した。
大司教の理解を得て「ミュンヘン」での演奏旅行を初め、6歳の時にはウイーンのマリア・テレジアの御前でもその才能振りを披露した。
以降、父と一緒にヨーロッパ各地で演奏旅行を成功させた。その傍ら、作曲も手がけて行った。
この「生家」には、彼が使った「クラビーア」(当時の小型ピアノ)や直筆の楽譜、生活用具、肖像画などが展示されていたが、撮影は禁じられていた。
しかし、22歳で母が死去、26歳で結婚した後に父も亡くなった。35歳の12月にモーツアルトは死去したが、死亡原因の特定や遺体や遺骨は、未だどこにあるのか確認されていないのだという。一説によると、当時の社会の黒幕の手で暗殺されたのではとも言われている。
次いで「ゲトライデガッセ通り」に出た。この通りはとても狭いが、両側に商店がぎっしりと立ち並んでいて、それぞれの店が出している鉄細工の看板がユニークだった。(文字が読めない人が多かった時代でも、看板を見れば何の店か分かるのである)
傍に「大聖堂」があり、その付近が広場になっていた。広場ではテントを張って屋台が軒を並べ、賑わっていた。私はその一つの店でモーツアルトの絵葉書を買った。
また人形店では、温か味がある手作りの人形が売られていた。
「塩専門店」に行ったが、色々なハーブを混ぜ込んで付加価値を高くした塩が沢山売られていた。一昨年、チュニジアの塩湖で取って来た塩がまだある私は、何も買わなかった。
自由時間に知人と「大聖堂」に入ってみたが、「モーツアルト」が洗礼を受けた洗礼盤があった。また、5つものパイプオルガンが設備されていたが、その1つ(前の右手)がモーツアルト専用のものだったことを知った。
≪「ザルツブルグ」という街≫①
旅の8日目は、午前中に世界遺産「ザルツブルグ」の市内を観光した。
「ザルツブルグ」は、オーストリアの中央部北側に位置する人口14万人の町で、「ドイツ」との国境に近い。町の名は「塩の城」に由来する。この街の周辺から岩塩が沢山取れ、その販売によって大きな利益を得、発展した町なのだ。
バスは電気で動く「トロリーバス」だった。
一方でこの町は、作曲家「モーツアルト」の故郷としても知られている。
私達は先ずバスで新市街の「ミラベル宮殿」に行った。
ここは1606年に大司教ヴォルフ・ディードリヒが愛人サロメ・アルトと過すために作った大きな館だ。現在は市役所、結婚式場として使われていて、日本からもカップルが来るという。広大な庭園では、ギリシャ神話の神々の彫像や幾何学模様に草花が飾られていた。
立ち上がろうとして後ろ足だけで固定されている馬と噴水など、財力を欲しいままに使った当時の大司教の権力の大きさを表わしていた。
またこの庭園のあちこちにアメリカ映画「サウンド・オブ・ミュージック」が撮影された場所が幾つも残されていた。
庭園を出て「ザルツァッハ川」に架かる「シュターツ橋」を目指した。川を前にした角の家が指揮者「ヘルヴェルト・カラヤン」が住んでいた家で、もう一方の角の建物が最高級ホテル「シュタインホテル」だった。
「シュターツ橋」の欄干には、もう珍しくは無いが、愛を誓う錠前が多数掛けられていた。
橋から高台に目をやると、そこには「ホーエン・ザルクブルグ城砦」が聳えていた。
この城砦は、1077年当時、神聖ローマ帝国皇帝とローマ教皇の争いが起こり、教皇側だったザルツブルグの大司教が建造を始めたという。ここは見学しなかった。