≪「国立自治大学」の大壁画≫
旅の2日目は、メキシコシティ郊外の世界遺産を見学した。
首都の南西部にある「メキシコ国立自治大学」のある町は「大学都市(C.U)」とも呼ばれているらしい。大学には30万人の学生がいて、広大な構内をバスでいどうするという。図書館では学生たちが勉強をしていた。
世界最大の壁画があるのは、大学図書館で、その4つの壁面が「オルゴマン」の壁画で埋め尽くされ、窓は最小限に開けられていた。
壁画は「アステカ文明」「スペイン植民地時代の圧制」「太陽と月、宇宙、科学、政治」「学生の役割」のテーマで作られているという。
また本館には「シケイロス」の「民衆から大学へ、大学から民衆へ」という立体壁画が見られた。
≪世界遺産ポポカテペトル山腹「フランシスコ会修道院」≫
スペインがメキシコを武力で征服した直後に、アステカ人たちの心を支配するために「フランシスコ会」「ドミニコ会」「アグスチーノ会」など幾つものキリスト教団がやって来て、メキシコシティから60kmほど離れ、標高2200mの「プエブラ」地区の標高5450mの活火山「ポポカテペトル山」山腹に競って修道院を建てた。最盛期には300もあったが、独立後整理され、現在は14の修道院が残されている。
土着の信仰を取り入れながらキリスト教を布教しようと工夫したらしく、修道院には屋外礼拝堂やインディオの顔に似たキリスト像などが見られ、スペインの布教の足跡を残す世界文化遺産として1994年に指定を受けた。
その一つの「カテドラル」に行った。その教会には1959年に壁の石灰層の下から「日本の26聖人殉教図」が発見された。豊臣秀吉が、1597年2月15日に宣教師6人と日本人信者20人を長崎で磔にした図が克明に描かれていた。
(船で居留していた島から長崎に移される所や、居留地の住居や生活が描かれている)
宣教師の一人がメキシコ人最初の聖人となった「フェリベ・デ・ヘスス」だという。
日本から遠いメキシコの郊外で日本との関わりを見るとは、全く思いも依らない事だった。
旅の2日目は、メキシコシティ郊外の世界遺産を見学した。
首都の南西部にある「メキシコ国立自治大学」のある町は「大学都市(C.U)」とも呼ばれているらしい。大学には30万人の学生がいて、広大な構内をバスでいどうするという。図書館では学生たちが勉強をしていた。
世界最大の壁画があるのは、大学図書館で、その4つの壁面が「オルゴマン」の壁画で埋め尽くされ、窓は最小限に開けられていた。
壁画は「アステカ文明」「スペイン植民地時代の圧制」「太陽と月、宇宙、科学、政治」「学生の役割」のテーマで作られているという。
また本館には「シケイロス」の「民衆から大学へ、大学から民衆へ」という立体壁画が見られた。
≪世界遺産ポポカテペトル山腹「フランシスコ会修道院」≫
スペインがメキシコを武力で征服した直後に、アステカ人たちの心を支配するために「フランシスコ会」「ドミニコ会」「アグスチーノ会」など幾つものキリスト教団がやって来て、メキシコシティから60kmほど離れ、標高2200mの「プエブラ」地区の標高5450mの活火山「ポポカテペトル山」山腹に競って修道院を建てた。最盛期には300もあったが、独立後整理され、現在は14の修道院が残されている。
土着の信仰を取り入れながらキリスト教を布教しようと工夫したらしく、修道院には屋外礼拝堂やインディオの顔に似たキリスト像などが見られ、スペインの布教の足跡を残す世界文化遺産として1994年に指定を受けた。
その一つの「カテドラル」に行った。その教会には1959年に壁の石灰層の下から「日本の26聖人殉教図」が発見された。豊臣秀吉が、1597年2月15日に宣教師6人と日本人信者20人を長崎で磔にした図が克明に描かれていた。
(船で居留していた島から長崎に移される所や、居留地の住居や生活が描かれている)
宣教師の一人がメキシコ人最初の聖人となった「フェリベ・デ・ヘスス」だという。
日本から遠いメキシコの郊外で日本との関わりを見るとは、全く思いも依らない事だった。