≪「スロヴァキア」の世界遺産「バンスカー・シュティアヴィニツァ」観光≫
「ハンガリー」の観光を終え、国境を難なく通過すると、そこは「スロヴァキア共和国」だった。
「スロヴァキア」は日本の1/7の面積に5,447,000人(2016年調べ)が暮らしていて、その80%以上がスロヴァキア人だ。その他、ハンガリー人、チェコ人、ウクライナ系のルテニア人、ドイツ人もいる。
言語はスロヴァキア語が公用語。若い人には英語が通じる。
ガイドブックを参照に、 「スロヴァキア共和国」の歴史を要約する。
7世紀にスラブ人が「サモ王国」を建国したが間も無く滅び、9世紀初頭に「ヒトラ公国」ができる。
828年キリスト教会が建てられ、833年には西スラヴ族が「大モラヴィア王国」を作るが907年に滅ぶ。
1536年「ハンガリー王国」の首都が「ブダ」から現在の「スロヴァキア」の首都「プラチスラヴァ」に移るが、1541年に「オスマン帝国」が「ブダ」を支配すると、150年間に渡って「ハンガリー王国」の支配を受けることになる。
18世紀になると、ハプスブルグ家の支配に反対する「ハンガリー民族」の運動が起きるが、「スロヴァキア」では「ハンガリー」に抵抗する動きが強まる。
1918年に「オーストリア=ハンガリー二重帝国」が敗れて、「チェコスロヴァキア」が独立する。1939年「チェコ」がナチスドイツの保護領となると、「スロヴァキア」は独立するが、実はドイツの傀儡政権だった。
1945年ドイツの敗北後、再び「チェコスロヴァキア」として独立する。
1992年の総選挙で「民主スロヴァキア」が第一党となり、1993年1月、「スロヴァキア共和国」が誕生する。
2000年「OECD」に加盟、2004年「NATO」と「EU」に加盟し、2009年、通貨を「€」に切り替える。
ヨーロッパの弱小国は、長い苦難の道を歩んで来たが、スロバキアもそうした国の一つで、独立してからまだ20数年しか経っていない新しい国なのだ。
「ホッロークー村」からバスは北西方向に約80km強走行して、山間の鉱山の町「バンスカー・シュティアヴィニツァ」に着いた。
坂の上に町の「中央広場」や「インフォメーション」があった。
この町は、15世紀半ばには金銀が産出される重要な鉱山になり、最盛期の18世紀には600kgの金、24,000kgの銀が採掘された。
20世紀になると産出量が減って町は衰退したという。現在の町の人口は1万人だ。
「中央広場」に面して「インフォメーション」があり、その裏に一つの「鉱石博物館」があった。ガイドに案内されて内部に入った。
①「鉱石博物館」
②「聖三位一体広場」
広場は傾斜地になっていて、中央に立派な「ペスト収束記念柱」が建てられていた。その台座で遊んでいた女児。
③「新城」
町の中心から狭い階段を登って行くと、小高い丘の上に「新城」があった。16世紀にオスマン帝国の侵略に備えて造られた二つの城の内の一つだ。
壁には砲弾の跡が沢山残されていた。城の前では出店が出ていて、色々なものを売っていた。
≪世界遺産「バンスカー・ビストリッツア」観光≫
次の町は「バンスカー・シュティアヴィニツァ」の38km程北北東にある鉱山の町「バンスカー・ビストリッツア」だ。
ここも14~16世紀にかけて銅と銀の産出地として栄え特に産出量が多かった銅はヨーロッパ中に輸出されていた。
しかし資源が枯渇するようになると、手工業の町として発展した。
一方、18世紀後半からは、スロヴァキア民族運動の中心地となった。
第二次世界大戦末期の1944年には、「ナチスドイツ」の支配に反対して「スロヴァキア民族放棄(SNP)」が起こった。
町の中心には、「SNP広場」が作られていて、教会、時計塔、市庁舎、中部スロヴァキア博物館が囲んでいた。
「ナチスドイツ」に最初に反旗を翻した人々がこの町の人たちだったんだと知って、感銘を受けた。
私達が訪れたのは土曜日だったので、教会では結婚式が行われていた。
(「SNP広場」)
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