存在する音楽

ジャンルに関係なく良いと感じた曲は聴く
誰かの心に存在する音楽は
実際に音が鳴っていない時にも聴こえてくることがある

100年インタビュー 時は待ってくれない 小田和正

2017-03-20 21:02:05 | TV番組
NHK BS2 2017,3,20 21:00~

横浜市 山手地区
星光学院 小田さんの母校で阿部渉アナウンサーがインタビュー
竣工式のライヴを実施したことも。

「マイホームタウン」1993 を最後に歌ったらグッと来ちゃった。
一番最初の歌詞に
ここで夢を見てた この道を通った
という歌詞があってね、まさにそれでね。

きっと今の友達が とっても大事になる時が来ますから、今を大事に生きて欲しいですね。


小田さんって色んなライブでこみ上げているのを見るんですけど
「そうですね。冷静にいようと思うんだけど、
今年70歳、本当ですか?嘘じゃないですか?
「はい。いくつくらいまで歌うんだろうかって思うことがあって、昔、30過ぎてあるかな、って思うことがあって、40、50、60って、まだ70ちょっと手前なんだけど、そこは受け入れて来れたんだけど、70は超えて行かないんじゃないかって思ったりもするね」
順風満帆な人生でもなかったであろう、その苦難なことをお聞かせ願いたいと
1998年の自動車事故の話 鎖骨と肋骨6本、首の骨がずれた絶対安静の事故だった。
「あの時は、九死に一生を得た事故だった。奇跡的に生き残った事故だったと振り返って思いますね。
ファンの人が心配して、とにかく生きていてくれるだけで良かったという手紙をいっぱい貰って、びっくりしたんですよ。
そういう身内じゃない そんな風に思ってくれるんだと感動しましたね。その事故の時にこんな風に思ってくれるんだから、喜んでもらいたいなって。そういう風に考えたことが無かったんだけど、それをどういう風にしたら喜んでくれるんだろうって思って、近くに行くと喜んでくれるというのが解って、客席から降りて行くと、とても喜んでくれて。

それから花道が作られた。

どうやったら喜んで貰えるのか。

花道作って歩いて行ったら、本当に笑顔で嬉しそうにしてるんだ。こんな笑顔になるのかって。

花道はかなり顔ハッキリ見えますよね?抵抗はなかったんですか?
「それがね、どっかからずうずうしくなっちゃったんだね。昔は、恥ずかしかったりして、どうなっちゃったんだろうなって思う人もいるんだろうね。」
手を出す人もいるでしょう?
「触りたいだろうなって。昔は手を振るだけでも照れ臭かったけど、生きていてくれるだけで良かったと言われたことが、そんなに良かったんだろうね。素直になれたんだろうね」

クリスマスの約束で流れた各地での記録映像。ご当地紀行。

あれも素の小田さんって感じですよね。
「ご当地ね。ご当地紀行というのはその日のためにその場所にいるんだという証みたいなものを残したいな。それをみんなと共有たいなって思ってね。外タレとかが来て、今日ここへ行って来たぜベイベーみたいなことを言ってくれると嬉しいだろうなって思って、僕が喫茶店とか行ったりしてご当地に行ったことで喜んでこうえるんじゃないかなって」

グランドへ
高校時代は野球部でしたね。部員が8人くらいになっちゃったこともあったね。キャプテンだった。
風を感じてましたね。風を感じて守ったりしてましたね。

今も風が好きですよね。

そうだね。何でか判らないけど、空や風を感じるんだね。
今美しいってのもあるんだけども、前にもこういう空を見たんだろうなって思うだろうね。前に見た空と今と違うのかな。青い空にこうして見上げて雲があったら、ただ良いなあって思うんだよね。

数えてみたら風が入っているタイトルの曲は8つありましたね。
「嫌だなあ、数えるなよ」(笑)

実家は三橋美智也や美空ひばりなどを聴いていたが1歳上の兄の影響で高校時代から聴く曲が変わって来た。
フォークのブームが来て、学園祭ステージ高3で立った。鈴木康博や地主道夫らと。
あの辺りのせいこうさいの時に先輩がゴスペルをアカペラで何曲かやったんだよ。それが格好良かったんだ。それで、来年あそこに立つのは俺たちだって決めた。本気で決めた。それで誘ってね。
ブラザーズ・ファオをやってもう満杯ですよね。大うけでね。近くの女子たちも来てね。

ごく近い同級生たちは応援してくれたけど、1時間でも勉強しなくちゃいけない時期に、あいつら何をやってるんだろうって思ってたと思うね。俺たちはわかっているけど、音楽好きで楽しいから、何物にも代えがたいから。
高校卒業後、1966年 東北大学へ進学
東京に残った鈴木康博、地主道夫らとオフコースを結成。
「JANE JANE」の音源が残っていた。全国2位。グランプリは赤い鳥。
その完成度に衝撃を受けた。

夏休みとか帰ってきた時に集中して練習して、コンサートホールとか借りてライブとかやりましたね。そんな風にしてバンドして楽しんでましたけど、さらさらプロになる気はなくて、そろそろ辞めないとなーと思っていた。それで、バンドとして俺たちはソコソコ上手いと言われていて、全国大会で優勝して、それでそこで終わろうって思ってたし、みんなともそういう話をしてた。
それで予定通り、地区大会から全国大会へ。赤い鳥がめちゃくちゃ良くて、それでやっぱりダメで2位になっちゃってね。それで悔しくて、これで終わって良いのかって、それも優勝したからどうだったかもわからないけどね。
それからも続けてやりましたね。

オフコース
群衆の中で 1970年 でデビュー フォーク調。
まもなく地主道夫さんが脱退。レコードも売れず、コンサートにも観客がいない。客から帰れという罵声も。

デビューいつですか?って言われてもいつかわかんないんだよね。
建築を離れることについて、ここからまだ離れられるなって。でも音楽は捨てられないなっていう消去法だったな。

とんでもないことはいっぱいあったからね。もっと音楽ちゃんと出来ないと、全ては自分のせいだって思ったからね。帰れとかよく言われたけど。ある時 かぐや姫と同じ事務所だったから、一緒に出て前座で出てた。お客さんはかぐや姫を早く見たいから早く終われっていう感じだった。最後の曲ですって言うと拍手が来て、これは嬉しいと思ったけど、それはやっとかぐや姫を聴けると思う喜びの拍手だったんだね。これは親に知られたらだめだなって思ったね。この姿は見せたくないなって思った。

オフコースとしての手ごたえはどのへんから?
「一番感じたのは5人になった時だよね」
70年代後半本格的なバンド編成になってから。
「さよなら」1979年 で一気にプレイク

仙台かなんかのコンサートが終わって、タクシーの中で「さよなら」が流れて、ああヒットするってことはこういうことかって思ったね。格好つけて言う訳ではないけど。ワクワクするとかなかったね。ずっと言われていたことはこれかーって感じだったね。

ヒット曲を作り続けることは?
みんながよく陥るそういうヒット曲を作り続けないということにはなってなかったね、自分が納得してりゃ良いというね。
俺はね俺と同じ感覚を持っている人と繋がりたいという。たぶん、ああいいねって。
同じ感覚って言われる
女々しいって言われる人もいたけど、感動したとか良いって思えってくれる人もいる。そういう感覚がないと思えないじゃない。
しかし、武道館のコンサートを最後に鈴木康博が脱退することに。
「言葉にできない」1982年のライヴ
小田さんが泣いているこのシーンを久しぶりに見たなあ・・・

その後4人で活動したが、1989年オフコースが解散。

どんどんコンサートの規模も大きくなって、82年には10日間という当時では前代未聞のことでしたよね。その時、鈴木さんが抜けるということは小田さんにとっては大きかったことですか?
「そりゃあね。大きかったどころじゃなかったね。やすがいなくなるということは、これで俺は止めるんだろうなって思ったね。青春の中だったね。いつまでも仲良くっていうのは理想だけど、俺の持論としては、いつまでも仲良くっていうのは無理でしょうって。政治でも妥協で見つけていくわけじゃない。でも音楽ではその妥協点を見つけて活動していくものではないんじゃない。だからどこかで皆が同じ方向を向いて行かないと」

渋谷のレコーディングスタジオへ
小田さんがソロ活動で利用してきたスタジオ

CM曲を書いたり、ドラマの曲を書いたりするようになり、オフコース時代にはなかった活動も始めるように。
「ラブストーリーは突然」がドラマのヒットとともに小田さんの最大のヒットとなりました。

当時のCDの最高記録でしたよね。
この人に足元をすくわれたりしてはいけないなって、スタッフにこんな時こそ謙虚に。まぐれ当たりみたいなもんだから、っていうことを話したりしたよね。

コード進行したりして作曲したりするんですか?
急に具体的になったよね。
色んな作り方があるよね。コードを弾くとメロディーが生まれたりするし

ピアノを演奏して教えてもらって良いですか?
Gで こんな感じで演奏。
今のは?
こんなのはよくあることだからね。コード。
変わったのであれば、こんなの

ああー雰囲気変わりますよね。

だからチョイスみたいなことがあるから、
メロディーだけを作っていくというのがあるんだよね。俺は、コードに流されないで。

俺はテープレコーダーを流しておいて録っていくのは、おれはあれないんだよね。
全部譜面に書いてやってるね。

メロディーに歌詞を書いていく?
だいたい9割。そうだよね。
指示代名詞が多い?
指示代名詞(笑)

あの日あの時あの場所で・・・

そうだよね。幅をもたらしてくれる。ふくらましてくれる。音としてそういうことばが曖昧な言葉でもとっても強くなることがあるんだよね。変なとってつけたような難しい言葉を見つけてみるよりも、ありふれた言葉の方が良かったりするんだよね。
ラブストーリーは突然には
三連譜ってわかる?三連譜にピッタリなのを探さないといけないなって思って、
あの日あの時あの場所でっていうのが良いなって。
2番の頭の所で 誰かが甘く誘う言葉に心に揺れたりしないでっていうのをサビでもう一回歌ってやろうって思って
これが三連譜がピッタリはまって、自分で手を叩いたよね。

カラオケで歌おうと思っても原曲のキーではなかなか歌えないですね。
だろうね。コンサートでもだいぶ頑張って歌ってるけど、アドレナリンが出るんだろうね。みんなの顔を見ていると頑張って歌い続けてるよね。
みんなが思っているキーで歌えなくなるのなら、歌うのは止めるだろうね。

歌以外のことで映画の監督も
「いつかどこかで」

映画製作
オフコース時代からプロモーションビデオや映像を使ったりされてましたけど

映画を作るような仕事をやってみたら楽しいだろうなって思って、
そういう準備、作業することは楽しいだろうなって本当に苦でもなかったから
演技指導とかもした。 津川さんとかね そんな津川さんに何を指導できるんだって(笑)
個性の強い 骨身を削って付き合って下さるんですよ、それで、こいつ何もないなって思われたんだろうね。自分は何もないわけではないんだけど、スタッフとの戦いだったですよね。だから手を抜くわけじゃない、みんなしっかりやってくれて。
それで評論家や多くの人たちに色々と言われて、言い訳できる材料もこっちもないし。

正直なところショックなところですよね。

いやー自分の人格を否定されたという感じで、何とか挽回しなきゃって早く挽回しなきゃって。どこが間違っていたのかなーってそれで2作目に取り組んだね。
それから5年。「緑の街」

失敗を含めて自分を映画にさらけ出していく心境はどこから出てきたのか。
1作目の製作現場の内容を2作目に取り込もうっていう

青木さんのキャディーをやっていてたことを録っていてね、それをドキュメンタリーでやってね。
それが受けてね。1994年。
最初は余裕があったけど、試合の中で失敗だらけで青木功に叱られてばかり、それをさらけ出した。

道を歩いていたら、面白かったねーって話しかけられてきたりした。
青木さんにマジに怒られたりしたことが面白かったんだろうね。

失敗を見せることには抵抗ないなー
滑稽だからね。人は親近感湧くしね。
ピアノを間違えちゃうと ああ間違えちゃったって言うと、お客さん凄く喜ぶからねー。
俺が格好つけようって思ったわけじゃないけど、
まーでもすかしてるところで戦ってたんだろうね。

テーマというより 自分をさらけ出すということを見せつける 等身大の自分ですって。
できるだけ少人数で行きたいなーって。僕一人で行きました。って言うとびっくりする。そういうのが好きなんだよね。俺にとっては等身大ってのはそういうことなんだ。
2011年11月台湾へ。
アジアツアー
2005年台北公演で台湾語でMC 2年前僕がここに来たときに凄い体験をしました。それを超えたいと思った。
満員の会場が歌で一つになったときに小田さんが号泣。

シンガポールだの、香港だの、台湾だの
親日のお客さんが多くて、どこでも暖かく迎えてくれて、
MCを中国語でやろうとして、歌も北京語に訳してもらって歌って、俺が歌えなくなったら、みんなが歌ってくれて、数あるコンサートの中でも感動したものでしたね。

よく音楽は国境を超えると言いますが、小田さんは?
俺はね、簡単には超えないよ。そんな簡単なもんじゃない。ある時、何かで超えて行くね。繋がって遥かに超えて行くね。
2011年3月11日東日本大震災
小田さんが被災地に降りった。
震災の時はリハーサル中だった。東京で凄い揺れたね。ただ事じゃないなと。

あのときはひかえていたツアーを止めるという決断をされたんですよね?
「そうだね。とても歌を、歌なんか歌っているような場合じゃない。音楽なんか何も役に立たないという。自虐的な。音楽は役に立たないものだったのかって。でもだんだん音楽というのは力になるのかもしれないってだんだん思うようになっていって」
その後 東北ツアーも
「あとになってね。それから曲を書いて、お前が泣いている場合じゃないんだぞって。そう思うって自分に言い聞かせて歌ったんだけど、
会場の皆さんが待っていてくれて
「待っていてくれてというより、こうして会場に足を運んできてくれて良かったなって思いましたね」
「できること喜んで貰えることはやるべきだなって思いましたね。ただ無理をしないで、やれることをやればと思ったね」
2012年 東北ツアーのMC
なかなか立ち直れないアーティストも居ました。僕もどっちかというとそっちの方でしたけど。曲を書きました。

デビューから50年近く続けて来られた
どの局面をとっても音楽が好きだったんじゃない?腑に落ちなかったことも、力が及ばないということがあっても音楽が好きだったということじゃないかな。それに尽きるな。

番組をやるのに楽しくやろうなっておっしゃってましたけど、
みんなでやって喜びをみんなと作ってそれに尽きますね。お客さんだったり、スタッフだったり、共通した分かち合う楽しさをどこかで繋がってできたらって思って。
引退、とか一切言われませんよね?

うん、言わない。何周年というのも言わない。

引退のイメージというのはご自身ではあるんですかね?

うーんと、えへへ って書いておいて下さい。

時は待ってくれない
というフレーズを小田さんから頂きました。今、このフレーズについてどう思っておられますか?

もう終わっちゃうねぇ・・
うん時は待ってくれないというフレーズを発した
TIME CAN WAIT 1990年 という曲を書いたことあるんだよね。
これから何かをスタートするってことが大事なんで、心からやりたいなと素直に思うことがあるなら、時はきっと待ってくれる。
夢を追いかける人のために時は待ってくれる

そういうのが大事なんだな。頑張れよって。

100年後へのメッセージ
皆さん今晩は。僕は100年ほど前に歌を作って歌っていたものです。
きっとそんなことはないと思いますが、僕の歌を聴いたことがあることはないと思いますが、
僕はこの時代を生きてとても楽しかったです。
これから100年大きく変わったんだろうと思います。それでも空は青く、やさしく風は吹いているんだろうと思います。
周りの人たちと大切に生きて、時代を乗り切って



小田さんの ありのままの姿をさらけ出して
自分が納得していれば良い
周りの人たちと楽しく生きて行くように頑張る
空や風とともに
今生きている

小田さんの潔さが伝わってきた 良い番組でした。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする