穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

第D(14)章 星日ともに天を戴かず

2016-09-03 09:05:00 | 反復と忘却

太陽も天文学的にいうと星らしい。だから父の死は巨星堕つと表現しても間違いではなかろう。太陽が沈むと星空が見えて来た。多くの星は一つ一つが俺にとっては未知未開の情報であった。

星日ともに天を戴かず、というのはおそらくは支那の古典に典拠があるのだろうが、俺は知らない。だが様々に使われて来た。太平洋戦争中、軍部や国粋主義者もこの言葉を使った。東京裁判で戦犯となり、精神異常で免訴となった元東大教授の大川周明などが使った表現である。うまい引用だった。星は星条旗つまりアメリカである。日は太陽であり日章旗を象徴する。世界の覇権は日本かアメリカが握るのであって、両者は並び立たない不倶戴天の敵であったのである。今はどうかな、二つの焦点のある楕円天空ということかもしれない。

とにかくオヤジの死の跡に出来た巨大な空洞にぼちぼちと我が家の情報が吸い寄せられて来たのである。オヤジの生きている時は我が家のルーツに関する情報は無であった。第一知ろうとする気もおこらなかった。偶然からいくつの情報が得られた。そうすると「えっ」と驚き少しは系統的に資料を集めだしたのである。

母親のほうの家族のことは比較的よく分かっていたが、それでも時々上京して尋ねてくるきょうだいなどのことしか知らなかったのであるが、整理すると新しいことが色々と分かって来た。

母と父は水と油のように性格が異なっていたが、前妻達とはことなり、結婚生活は長く続き母は天寿を全うした。これがよく分からなかった。成り上がりの田舎者で、運に恵まれて目覚ましい出世をした暴君的な父と聖女とも言っていい母がどうして大した波乱も無く(情報が少ないが表面的には息子からみてそう言う人生だった)添い遂げたのか。

母の忍従によるのか。母の家庭も地方とはいえ、山間部ので育った父とはことなり、都市部の裕福な家庭に育ち、父親の海外勤務についていって、外国生活の経験もあった。地方の文化サークルの中心にいた。母が結婚したのは30過ぎで昔の考えではかなり遅い。母の下には妹達が沢山いて皆結婚適齢期になっていた。父の負担を考えて後妻の話を受け入れたと思われる。

母は二つのプロジェクト(企投)によって精神の均衡を保ったらしいというのが俺の解釈である。自分の青春の投影としての娘の自由放任と俺に対する父と正反対の「あるべき男」の要求である。

ある意味では結婚前に自己との折り合いを付けたのであろう。結婚という物は女にとって大多数のケースがそうであろうが、一種の妥協折り合いの産物であろう。だから結婚という制度が何千年も維持できたのかもしれない。

ドストエフスキーの小説「罪と罰」にラスコリニコフの妹とルージンという成上り者の中年男の結婚話がある。ラスコリニコフは妹が母や兄のために犠牲になって中年男に嫁ぐといって非難する。妹はそうじゃないと反論する。そしてきっとうまく遣って行けると主張する。その自信があると兄に反論する。これって母のケースとおなじではないか、と俺は思った。ただドストエフスキーは天才的な筆で具象化しているわけだ。

母には弟がいたが、弟が姉の結婚にどういう意見だったかはわからない。しかし、母が地方の文化サークルで知り合った男性から来た、ラスコリニコフのような意見を述べた手紙が母の遺品のなかから見つかった。