穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

第D(23)章 五月祭の汚物

2016-09-23 08:20:53 | 反復と忘却

どういうわけか、俺の家族、親戚には医者が多い。父方、母方にも複数いる。やたらに医者が多いのだ。前にも書いたような記憶があるが、父母の死後、まったく謎であった家系を調べてみたのだ。母方にも医者が複数いる。ずっと昔は代々薩摩藩の茶坊主だったらしい。僧侶みたいな名前がついている。医者が増えて来たのは二、三代前かららしい。

オヤジの方はもう少し古くて幕末には徳川譜代大名の御典医だったのがいる。御典医といっても驚くことはない。現代で言えば大企業の診療所の医師みたいなものである。眼科、歯医者、外科、内科すべてに御典医がいるわけで、それも各科で数人はいたらしい。現代の企業付属の病院と同じである。

この医師は御典医といっても特定の藩にながく勤めるというのではなくて、短期間であちこち渡り歩いたらしい。女好きで(どうも家系らしいな)女を求めて各地の大名の間を放浪して歩いたらしいのだ。腕が相当よかったらしい。だから大名家を渡り歩けたわけだが、どうもおんな好きで放浪癖があったというのはカモフラージュらしい。

というのは、調べた所では渡り歩いた大名が幕末維新で政治的な動きをした藩ばかりであったのである。今も昔もそうだが、医師というのは病人がいれば何処にでもいく。言い方を変えればどこの屋敷にも入り込める。そうして大名や維新の志士(今で言えば政治家だな)の間を毛シラミのように情報伝達を仲介する。時には反対派或は佐幕藩にも潜り込める。そうして色々な情報伝達の経路となる。これは今も昔もかわらないだろう。医者というのはそういう役割には目立たなくて自然である。

そういうわけで母親も俺をどうしても医者にしようとしたわけである。それでまだ小学生のころから東大の五月祭に俺を連れて行く。そして医学部の展示を見せる訳である。シナの故事ではないが、孟子三遷の教えだったかな、幼いうちからそう言う物を見せておけば自然と医者になるだろうと短絡的に考えた訳だ。

皆様ご案内の様にそこには切り刻まれ皮を剥がれた人体の標本が所狭しと陳列してある。死体の汚物置き場である。これを見て医者に興味を持つだろうと思うのも短慮の極みだ。

俺の兄にも一人医者がいるが医学部に入って最初の解剖の授業を見た時は昼飯が食えなかったといっていた。まして小学生低学年の子供がどういう拒否反応をするのか分かりそうな物である。そう言うわけで医者は俺のキャリア・パスからは真っ先に消えた次第である。