池内「審判」を読み終えた。以外にすらすらと読めた。
* 誤植、或は翻訳ないしは原文の誤りか
大聖堂という章がある。Kがイタリアの銀行家に街の大聖堂を案内する予定というのだが。10時に大聖堂で待ち合わせる。大聖堂に着いた時「11時の鐘がなった」とあるが、約束は10時では。そして何行か後に相手がこなくて時計をみたら「もう11時だった」とある。
カフカが素っ頓狂な記述を得意とするからといって、こんなところで相対性理論みたいなトリックを使う訳がない。第七刷までよく訂正しないで来たものだ。
* 港港に女あり
下宿の同宿ビジネスガール、裁判所の門番のおかみ、訪問先でのお手伝いやらとすぐにいちゃいちゃする、Kは。彼は美男でセックスアピール十分という設定だが、何だが二、三十年後に出現したアメリカの安物ハードボイルドの主役みたいだ。
* 彼は来るべき現代社会を先取りしたと評論家はいう。ナチスの出現を予言したというようだとか。そうだろうか。カフカは社会とか、国家だとか、世界とか、それは制度であり掟なのだが、それにシンクロ出来ない人間を描いているという。そこまでは同意である。しかし、こういう人物は有史以来どこの世界にもいたわけで、近代になって個人の自由が相対的に強くなったから、目立って来ただけである。そういう状況を独特の表現で描いたことはすぐれているが、別に時代の予言者ではない。つまり大昔から個人と集団の擦り合わせ、齟齬の問題を鮮やかに描いたのが彼のすぐれた能力で、予言者でも何でもない。
ついでに::
新潮文庫の「城」をあがなった。現在39ページ。訳者前田敬作氏。1921年生。前述「審判」の池内氏は1940年生まれ。わたしは若い(60歳以下の)訳者のものは敬遠している。なんだか日本語じゃないみたいなんだね。
池内氏ぐらいならまあまあだから、前田氏はもっといいと思ったが期待はずれ。
Kの口調が妙なんだな。変な崩し方である。なんだか田舎の土方みたいな印象である。ここまでやる必要があるのだろうか。
もっとも、測量士というのは日本でも田舎の土方とあまり変わりがないのではあるが。