新潮文庫『城』 371ページ、クルスが書記に口授(クジュ)する、とあるが口述という訳語をあてなかったのは正当な理由があるのか。例えば原ドイツ語のニュアンスとか。
クジュは宗教指導者が信者に口づてに教えを授けるという意味だが、ドイツ語の言葉がそれに相当しているのか。訳者の無知、気取り、無神経、知ったかぶり、気取りではないのか。
あながち訳者の日本語能力のためばかりではないだろうが、「城」は相当な駄作と見切った。長編(短い長編)の審判は取っ付きにくい小説だが、そう思って読めば興味津々だし、迫力もある。それに比べて『城』は冗長、しばしば意味繋がらず、また前出を受けているのかどうか不明な箇所が多い。カフカの最晩年の作なのかな。未完だというし。
『審判』は最後の部分を最初に書いたという。つまり構成としての整序がある。従ってテーマもはっきりと伝わる。それに比べて「城」は行き当たりばったりでしかも未完のまま残された遺作と言う。苦労して意味を慮りながら読む価値は無さそうである。