穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

哲学書の種類

2016-09-12 07:39:32 | 書評

私は寝起きが悪い。朝はどんぶり一杯のインスタントコーヒーをアスピリン数錠と一緒に飲む。エルヴィス・プレスリーのレコードをかける(CDを聞くというのかな、古いね)。それだけは無く書棚から適当に引き抜いた哲学書を拾い読みする。そうすると小一時間するほどに頭脳活動指数が正常値に達するのである。

小説を選ぶ場合もあるが、目覚ましには哲学書が多い。哲学書と言ってもいろいろある。流派(といっていいのかどうか)にも色々あるが私は流派にはこだわらない。朝の暇つぶしに、覚醒の一助になればなんでもいい。それらを戯れに分類してみた。

1:これはお話にならないな、とすぐ分かる本。「なにを言ってるんだ」と。こういう本を我慢して読むほどお人好しではない。向学心が強くない。すぐに放り出してしまう。

2:おかしいな、と思うことは多々出てくるものの、そこを好意的に理解してやれば案外読めそうだと感じる物。これは我慢して読む。数ページね。結構覚醒効果を期待出来る。

3:学部生、院生の論文みたいな物。日本の出版社は欧州などの哲学者の学位論文みたいなものまで親切に出版することが多い。こう言うのはやたらと出典参照が多い。一行に一カ所は出典注記がある。指導教官にコピペを批判されるのが怖いのだろう。これは日本も外国も同じだ。この手のものを読むほど私は親切心がない。

こういう論文ではどこが著者の主張や思想なのか判然としない。権威に寄りかかるような印象である。

4:小説でもそうだが、私が重視するのは「ムンムン度」である。それを感じる物は読む。代表的なのは(そして一般的に分かりやすいのは)ヘーゲルだろう。小説でもムンムン度は重視するが哲学書でもそうである。ムンムンと迫ってくる物がないのは駄目だ。

カール・マルクスがヘーゲルにいかれたのもこういうところじゃないかな。

もっとも、ヘーゲルでムンムン度が高いのは精神現象学と論理学ぐらいだ。特殊部門に応用した物は退屈である。たとえば法哲学、歴史哲学等。

朝一番の目覚ましアップでございました。