三四郎は自殺をおそれたと同様にさとりをおそれた。自殺のさきになにがあるのか。肉体が滅びても現在の苦悩の発生源である魂が幽霊船のようにいつまでも宇宙を漂っているという説を信じていたのである。キリスト教徒が自殺を嫌悪する様に怖れていたのだった。
本屋にいくと哲学、思想、宗教、スピリチュアルという棚が肩を並べて一塊になっている。彼もそんな棚から二、三冊スピリチュアルとか精神世界本を選んで読んでみたものであった。仏教系であれば「さとり」を開くとか涅槃に寂入するとすべての問題は解決するらしい。これが分からなかった。たとえようもなく三四郎の想念を脅かした。さとりの後になにがあるのか、さっぱりイメージがつかめなかった。
これって痴呆状態になることと非常に似ている様に思われて仕方がなかった。思春期の青少年が目ざすべき方向とはどうしても思えなかった。たしかに痴呆状態になれば何にも煩わされず、恍惚とした幸福状態になることは分かる。それが三四郎を恐怖させた。
キリスト教だと、天国に行くことが究極の目的らしい。天国というのは色々読むと地上とちっとも変わらない世界である。みんな精霊となって只々幼児の様に戯れるばかりの世界らしい。三四郎にはピンとこなかったが「さとり」のように恐怖心を抱かせることはなかった。だがいまさら幼稚園に逆戻りすることにも魅力を感じなかった。
キリスト教には回心という現象があるらしい。地上に生きたまま、一種の悟りを得て人間が変わってしまうらしい。パウロの回心とかね。何の前触れも無くいきなり頭上に雷が落ちるようなものらしい。もっとも厳しい修行をしなければ回心が訪れないということはないらしい。パウロやアウグスティヌスのように放蕩無頼な生活を続けていても回心は来るようである。そこは魅力であるが、こんなことが起きることをあてにして生きている訳にもいかないではないか。
あの夏の夜の一撃以来、魂と肉体とがしっくりいかないことが三四郎の自覚症状としての最大の悩みであったのである。どうかするとコンセントが外れたみたいに両者が離れてしまう。永久に離れるという訳ではなく、くっついたり、外れかかったりする。ちょうどあの地底に掘ったような池で爆死した人間のように不可逆的に頭が吹っ飛んでしまうという訳ではないのだが。