◇「核防護」必要だけど…
今年になって2度、加藤高明さん(74)=さいたま市=は故郷の長崎市内を歩いた。64年前、国民学校5年の、夏休みだけど午後は登校日だったあの日、自宅近くの友人宅の縁側でおはじき遊びをしていて空を見上げようとしたあの時。午前11時2分。世界がまっ黄色に染まり、次の瞬間、吹き飛ばされて散乱した畳の下に埋まった。あの場所に立ち、爆心地まで歩いてみたかった。 記憶は昨日起きたことのように鮮明だ。全身にけがをし、運び込まれた防空壕(ごう)の入り口で、4歳上の先輩が「ちくしょう、ちくしょう」と叫んでいた。壕からは一歩も出なかった。1週間後、父が疎開を決意する。一家全員で荷物を抱え市外に出た。 倒壊した家は建て直されていたが、母屋の石垣はそのままだった。爆心地まで1・5キロ。方向は分かっている。野戦病院ができて、焼死体の山があった先。戦後どんどん住宅が建ち進んでも、故郷を焼き尽くした爆発の方向は忘れようがない。ぶらぶら歩いても30分。初めて実感した。原爆はこんなに近かった――。 高校卒業後、大学では獣医師の資格を取ったものの、折から就職難の時代。幹部自衛官を養成する陸上自衛隊の幹部候補生学校に進むことを決めた。。陸自では化学職種。約30年、主に核・生物・化学兵器に対処する化学部隊にいた。核・生物・化学・放射能兵器は英語の頭文字を取って「NBCR兵器」と呼ばれる。「被爆者で、獣医で、化学防護隊長を務めた私は『NBCR』をすべて経験した変わり者です」。はにかんだ笑顔に誠実さがにじむ。 陸自で教える対核防護の3原則は「距離」「時間」「遮へい」。被爆被害を少なくするには、できるだけ離れ、滞在時間をなるべく短くし、ビルや地下に退避せよと教える。加藤さんが被爆時に遊んでいた縁側の木の壁の向こう側が爆心地だ。熱線に直接さらされずに済んだのだ。加えて、父が早めに疎開を決断したため、残留放射線をあまり浴びなかった。防護理論はそのまま加藤さんの実体験に重なる。 退官後、NPO「NBCR対策推進機構」(東京都中野区)の設立に加わり、いま副理事長としてテロ対策などを講演して回る。被爆体験を一般の人に話し始めたのは最近のことだ。体験を交えれば、相手は身を乗り出して聞いてくれる。持ち歩いている「核防護セット」をカバンから取り出してみせる。頭からすっぽりかぶって「死の灰」(放射性降下物)から身を守る大きなビニール袋や生き埋めになったとき役立つ警笛など。「自分の安全は自分で守ることが基本です」。信念を口にする。 被爆者にとって核廃絶は悲願だ。一方で核兵器に対する備えすら拒む長崎市民が多いことも、加藤さんは知っている。「核に反対しなきゃと思う。でも、核保有国に囲まれ、北朝鮮も持とうとしているときに、日本だけ持たないでいいのかとも思う」。理路整然とした口調が一瞬、小声になった。「揺れ動いているんです」』毎日jp