「東大など難関大学の現役合格15人以上」。東京都教育委員会は8日、現在7校を指定している都立高校の「進学指導重点校」の選定に当たって、2013年度からこんな基準を導入することを決めた。重点校に選ばれると教員配置の優遇措置があるが、伝統校といえども実績次第で指定を外すことを打ち出して、一層の「努力」を促すという。私立に対抗し、様々な進学指導策を打ち出す都教委の「強化路線」の一つだ。 現在の重点校は日比谷、西、国立、八王子東、戸山、青山、立川の各校で、進学指導に実績がある教員の優先配置、教員の加重配分などの措置を受けている。いずれも都内各エリアを代表する進学校として制度が始まった01年度以降に指定を受け、これまで入れ替えはなかった。 ただ、都教委が「難関4大学」と呼ぶ東大、京大、一橋大、東京工業大への現役・浪人を合わせた合格者はトップの日比谷の65人から一番下の立川の11人まで差があり、都の教育委員から「指標をつくって、ふるわない学校は外すべきだ」との声が上がっていたという。 今回の基準導入はその意見をいれたもので、「難関国公立大(4大学とその他の医学部)の現役合格15人以上」「3年生の6割が5教科7科目で大学入試センター試験を受験、1割以上の受験者が8割程度以上の得点」の2点が要件。両方を満たすのが原則だが、進学指導の力の入れ方なども勘案するという。 数値達成主義のやり方に「公立校の教育にはなじまない」という批判も上がりそうだが、都教委の担当者は「指定校の合格実績はまだ不十分。新基準導入で進学指導をさらに充実させたい」と強調する。2010年7月8日15時2分アサヒコム
東京都の学校群制度は、『1967年 - 東龍太郎都知事時代、小尾乕雄(おびとらお)教育長の主導によって都立高校入試に学校群制度が採用されることとなった。1966年4月に同制度の構想を公表、7月に導入を正式決定、1967年2月に同制度による第1回入試を実施と、構想の公表から入試実施まで1年足らずであった。詰込教育批判への対応から学力試験の科目数が9科目から3科目へと削減され、9科目の内申と学力試験とを実質的に同等に評価することとなった。同時に、第二志望を認めるしくみをなくし、不合格者は学区内での成績いかんにかかわらず都立高へは進学させないこととなった。学校群制度は美濃部亮吉都知事時代にそのまま引き継がれ、鈴木俊一都知事時代の1981年まで存続した。 の導入により東京大学合格者数1位を記録していた日比谷をはじめ西、戸山、新宿、小石川、小山台、両国、上野などの名門都立高校の東京大学を始めとする難関大学への進学実績が低下し、特に日比谷では急速かつ極端に落ち込んだ。一方で、青山、富士、国立などの進学実績は急速に上昇した。この制度導入以降、都立高校全体の難関大学進学実績は長期低落に向かった。制度導入の背景として、受験戦争の過熱があった。とりわけ、旧制時代のナンバースクールをはじめとする名門校には、希望者が殺到していた。住民票を当該校学区内に移しての越境入学が常態化し、都民からは不満の声が上がっていた。都立の特権進学校をなくし八ヶ岳的に進学実績がなだらかになることを狙ったものと云われているが、国立や私立高校、ひいては私立中学へ受験生が流出し都立高校の進学実績が全般的に低下することになった。また、これ以降、15歳どころか12歳の春を泣かせることになり受験低年齢化に拍車をかけた、あるいは当初の八ヶ岳的な多様性を狙いとするのなら国私立も含めた大枠からの施行であるべきところ、単に国私立の特権校をつくりだしただけだ、などとの批判も根強く、学校群施行前から指摘されてもいた。つまり社会科学的見地からも選択肢の多い東京など大都市圏では特にその実効性を上げ難いことが云われていた。内申点の重点化は、中学生の部活動加入を高め、また偏差値による輪切りが見られるようになるなど、戦後民主主義の思想的潮流と同時に当時の管理教育の時代背景があることも見逃せない。学校群編成にあたり、旧制中学系と旧制高女系の一流校は基本的に同一の群とされ、名門校の温存が図られた。その結果、学校群内の学力は均質化されたものの、今度は学校群間に格差が発生した。第二志望が認められなくなったため、高学力の難関学校群不合格者はいわゆる滑り止め高などの私立高校へ流出することとなった。また、もともと校風の全く異なる学校(学校群以前において、旧制中学系高校は男子、高女系は女子の定員比率が高く設定され、旧制以来の校風が残されていた)同士を組み合わせたため、本来の志望校以外に振り分けられた場合の違和感は大きく、多くの都立棄権者を出すことになった。 学校群制度は、その内容から俗に「日比谷潰し」と称された。同校は九段及び三田と学校群「11群」を形成したが、(1)他の主要学校群がおよそ二校なのに比して三校で群を形成、(2)受験生の意思による単独での学校選択が出来なくなったこと(その他に部活動に関しても、入学後は野球をする意志のある者は当時野球部が存在しなかった三田には入学しないであろう)、(3)住民抄本提出の義務等など学区外からの越境入学が難しくなり受験出来る者が限られたこともあり、志願者層の変化が起こったこと、(4)1965年の進学指導中止を申渡す「第1次小尾通達」もあり、学園紛争の影響下、都立各校では進学指導を中止する動きが広まったことや補習科の廃止など、教える側の熱意が奪われたこともあり教育内容面での変化も起きたこと、(5)新中間層の出現など大衆受験社会の到来もあり時代的に国私立の中高一貫校の台頭など進学ルートの多様化が既に見られたことなど、その他の要因(学校個々の文化資本etc)もあるにせよ東大合格者数トップの座を失い、以後も同じ都立高である西や戸山等と比較しても急速に東大合格者数上位校からもその名が消えることになった。1994年 - グループ選抜制度廃止。各校毎の単独選抜制度に移行。内申の取扱も各校毎の事情に合わせて比重が異なるようになった。特に2000年以降、内申の評価が相対から絶対に移行し学習進度を正確に表さなくなった為に、その傾向が顕著になってきた。隣接学区枠を設ける。1996年には推薦入学選抜を初めて実施。東京私立中学高等学校協会の反対もあり適性試験は行われず。2001年には石原慎太郎都知事・横山洋吉教育長により「進学指導重点校」を設け、第一号に日比谷・西・戸山・八王子東が指定される。「小尾通達」以来、およそ35年ぶりに公式に進学指導を打ち出す。都立各校の特色化を打ち出す中で進学指導も都民の多様なニーズに応える一つの施策として位置づけられる。2003年には第二号として国立・立川・青山が追加された。出典: 学校群制度、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から一部引用』
2001年度から 石原慎太郎東京都知事が都立高校復権を掲げ「進学指導重点校」を設け、第一号に日比谷・西・戸山・八王子東が指定されたが、まだ9年目です。昔の都立高校、日比谷・西・戸山の御三家が復活するのにはまだ最低6年は掛かり、難関国立大学に合格者数で、1965年の東京大学の合格数で日比谷181人、西127人、戸山110人の東京大学合格者数の御三家の実績を上げるには2031年の春まで掛かるのではないでしょうか。進学重点高校同士間で競争をさせて進学実績を上げようと東京都教育委員会は考えいるようですが。難関国立大学の合格実績と言うことを考えれば伝統校に軍配が上がると思いますが。教育改革をしても本当の教育の成果が上がるのは30年先と言うことを忘れているのでは有りませんか。東京都の学校群制度の導入により、東京都の都立高校入学試験は緩和されましたが、学校群制度によって初めて卒業生を出した1970年度東京大学 合格数日比谷高校は、5位99人に急落し以後ベストテンから姿を消している。4 位は西高校100人。7位戸山高校80人。代わって上位進出したのが灘の1位151名、東京教育大学付属駒場137名、同付属103人と私立や国立の中高一貫校の追い風となり、特に開成高校は学校群制度の卒業生が初めて出る前1968年の東京大学合格者数が61人だったが1970年には86人に増えその後ベストテン入りが定着した。私立の中高一貫校は、難関国立大学に毎年合格者数を増やし、生徒数を集めようと努力して来た『少子化による18歳人口の減少期』を長期的に見通し来た私立校の生き残りを掛けた経営戦略と学校経営の成果とも言えます。戦後の大學進学者希望者数の増加、第一次ベビーブーム(1947年から1950年生まれ)第二次次ベビブーム(1971年から1974年生まれ)の大學進学者数を本当に見据え長期的視野に立った学校群制導入だったのでしょうか。
お金持ちの経済的に豊かな家庭の子供達は、難関国立大学を目指し私立中高一貫校や国立大学付属の中高一貫校への進学すると言うの流れが定着し、結果的には名門都立高校の斜陽化と都立高校離れを生んだだけです。今日の公立校と私立校の学力格差の拡大原因を定着させたと言えます。
小学校の成績上位者は、私立大學付属小学校や国立大学付属小学校のお受験組みも含め、難関私立の中高一貫校や、国立付属の中高一貫校進学が定着している今日、週休5日制と3年間カリキュラムで 難関中高一貫校に対抗し、難関国立大学に合格者数を出すのには一朝一夕には行かない難しさが有るのではないでしょうか。東京都教育委員会も後十年は、サポートし頑張らないと難関国立大学への合格者数の目途をつけることは出来ないのではないかと思います。
経済的に豊かな家庭の子供達でないと小さい時からの塾代も嵩み難関国立大学には合格出来ないのが、日本の今の受験制度の現実ではないでしょうか。