教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

「志願者数日本一」明大、受験料の増収分で特別奨学金

2010年07月16日 20時21分52秒 | 受験・学校

『日本一のご褒美は特別奨学金――。今春の入学試験で、初めて「志願者数日本一」となった明治大(東京都)が、受験料の増加分の一部で、今年度限りの奨学金を作った。7月末から168人の学生に対し、年間授業料の半額に相当する約36万~約54万円、計6700万円を支給する。  明大の入学志願者は今春、前年より9500人近く増えて11万5700人に到達。昨年度までの「王者」早稲田大を200人弱上回り、初の日本一となった。  これにより明大は2009年度よりも受験料収入が2億6700万円も増加。一方で、不況の影響で経済的な支援が必要な学生が増えていることから、返還が不要な今年度限りの奨学金を設けることにしたという。 明大の年間授業料は、もっとも高い理工学部などが108万9千円、もっとも安い政経学部などが72万6千円。約160人の募集に対し、661人の応募があったという。』 2010年7月15日アサヒコム

明治大学www.meiji.ac.jp の志願者数日本一のご褒美は、今年度限りの返還不要の特別奨学金の設置です。今春の入学試験で、初めて「志願者数日本一」となった明治大学が、受験料の増加分の一部で、今年度限りの奨学金を作ったのは、受験料収入の学生への利益還元です。返還不要な今年度限りの奨学金の制度の創設ですが。今の世界同時不況の景気が回復するまで下宿生活を送っている明治大学生との為に特別奨学金を制度継続して下さい。そうすれば来年度も受験生が増えると思いますが。来年度も王者早稲田大学より明治大学の志願者が上回らないと駄目と言われるかも知れませんが。明治大學は来年度入試で地方試験場を今年より増やすかも分かりません。特別奨学金制度で、明治大學への志願者先取りと言うことも今の不況下の日本では歓迎されるのではないでしょうか。文部科学省の私学助成金の削減が問題になっている今日、私立大学の入学金や授業料を値上げせざるを得なくなって来ているのではないでしょうか。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

明治大学
「リバティタワー」(駿河台キャンパス)
「リバティタワー」(駿河台キャンパス)
大学設置1920年
創立1881年
学校種別私立
設置者学校法人明治大学
本部所在地東京都千代田区神田駿河台1-1
キャンパス駿河台(東京都千代田区)
和泉(東京都杉並区)
生田(神奈川県川崎市多摩区)
中野(仮称、東京都中野区)
学部法学部
商学部
政治経済学部
文学部
理工学部
農学部
経営学部
情報コミュニケーション学部
国際日本学部
研究科法学研究科
商学研究科
政治経済学研究科
経営学研究科
文学研究科
情報コミュニケーション研究科
理工学研究科
農学研究科
教養デザイン研究科
法務研究科
会計専門職研究科
ガバナンス研究科
グローバル・ビジネス研究科
 

明治大学(めいじだいがく、英語: Meiji University)は、東京都千代田区神田駿河台1-1に本部を置く日本私立大学である。1920年に設置された。大学の略称は明治または明大(めいだい)。

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大学全体

聖橋」と「御茶ノ水駅

明治大学は「近代市民社会を担う聡明な若者を育成する」ことを目指し、1881年フランス法自由民権思想を学んだ青年法律家らが創設した。

大学本部及び文系学部・大学院等は、文化・文教施設が集積し、“日本のカルチエ・ラタン”とも呼ばれる国内最大の学生街御茶ノ水に立地。東京都心部に位置する都心型大学である。(理系学部・大学院等は郊外に立地)

2010年度入試では志願者数が日本一になるなど、例年最大規模の入試が行われる国内有数の人気校である。2011年に創立130年を迎え、創立130周年事業コンセプトとして「世界へ-『個』を強め、世界をつなぎ、未来へ-」を掲げ、国際社会を牽引する「世界に開かれた大学」を目指す。

大学の略称は「明大」であり「めいだい」と発音する。但し、明治大学は、商標「明治大学」称呼「メイジダイガク、メイジ」を商標登録登録商標日本第3043764号)しているが、「明大」・「めいだい」に関しては商標登録をしていない。

理念

基本理念は「権利自由」、「独立自治」である。現在ではこれに「質実剛健」、「新しい知の創造」、「時代の要請」を加えたものを大学の理念としている。

教育・研究

法律学校としてスタートしているが、商学部経営学部私学で初めて設置するなど、伝統的に商学でも知られる。また、人文系でも演劇学考古学等、独自の歴史・伝統をもつ専攻を多く有す。大学院では、毎年国内トップクラスの国家試験実績を上げる法科大学院会計大学院の他、現職市長議員が院生として最も多く在籍することで知られる公共政策大学院などがある。[

「とちの木通り」(マロニエ通り)

世界トップレベルの大学を目標に国際競争力の強化に重点をおいており、文部科学省の平成21年度「国際化拠点整備事業」(グローバル30)に日本を代表する国際化拠点校のひとつとして採択され、「グローバルコモン・プログラム」を立ち上げ、国際的に高度な役割を果たす人材を養成するプログラムを展開。平成32年度までに4000人の留学生を受入れ、1500人の学生を世界に送り出すとともに、世界の主要都市に拠点を整備し、海外展開等におけるワンストップサービスを日本の大学全体に提供する計画を推進する。

社会に開かれた大学を志向し、1999年に設立した『リバティアカデミー』は、大学のもつ知的資産と大学院・図書館・博物館等の生涯教育部門をネットワーク化、多くの会員を集め年々規模は拡大され、2010年前期は220講座を開設。

学風・特色

“「個」を強くする都心型大学”を謳い、東京都心部でのキャンパス展開に特色を打ち出す。政治・経済・文化の主要機関が集積する東京都心部でのキャンパス展開により、各分野の第一線へのアクセスや自己表現の場の豊富な環境を用意すると共に、伝統ある綜合大学ならではの豊富な学問環境や課外活動プログラム、伝統あるクラブサークル活動の場等を提供し、学生達の自己実現をバックアップする。

伝統・文化

列柱の船首像 “フェニックス”
「権利自由、独立自治」の精神の永久不滅を象徴

法律学校として出発し、多くの法曹政治家等を輩出してきた一方で、文化の薫り高い御茶ノ水の顔として“都会派”大学を標榜し、映画監督作家などを始め、多くの文化人を育んできた。また、スポーツにおいて、伝統あるクラブを多数擁し、個性の強い指導者選手を輩出してきたことなどにより、男性的なイメージで校風を語られることが多い半面、フェミニズム教育の伝統による女子の活躍の歴史があるなど、重層的な文化、伝統をもつ。

日本の大学として初の法学部女子部を創立し、女性法曹の養成を積極的に推進するなど、フェミニズム教育の伝統があり、初の女性法曹・裁判官キャリア官僚女性政治家の一人や、iモード開発者などに代表される女性実業家の他、女子野球部員バトンチアリーディング部を初めて導入してきた体育会など、各界で時代をリードしてきたOG達の歴史がある。その系譜は、近年の若手女優ファッションモデルらの活躍に連なる。

国際交流面では、1910年には米国アイビーリーグ等の大学との間で留学生協約を締結すると共に、特にアジア圏内から多くの優秀な留学生を受け入れ、アジア各国の首脳を多数輩出してきた歴史をもつ。また、雄弁部や野球部等がそれぞれ大学初の世界遠征を敢行。近年になり国際化の流れは再開し、関係者より、国際派としての復活が期待されている。[3]


沿革

創立者

「暁の鐘」(岸本辰夫記念ホール)

創立者の岸本辰雄宮城浩蔵矢代操は、大学南校東大法学部の前身)に対抗して、1871年司法省内に設立されたエリート法律家養成機関である司法省法学校にて、第一期生として全国から選抜された20名のうちの3名であり、日本で西洋近代法を習得した第一世代にあたる。また、この第一期生の過半数が明治大学の創立に関与している。

「開学記念碑」(有楽町
「校旗」及び、西園寺公望が起草したとされる「設立ノ趣旨」 [4]

論文「検閲」阻止求め県教委を提訴 山口、県立校教頭

2010年07月16日 18時34分51秒 | 受験・学校

 『個人的に執筆した教育改革に関する論文について、山口県教委が表現の変更や発表しないよう求めたのは「検閲」に当たり、憲法で保障された表現の自由を侵害するものだとして、同県立学校の教頭(59)が、これらの行為をさせないよう求める訴訟を山口地裁に起こしていたことが、わかった。教頭は「表現活動は尊重されるべきだ」と話している。  訴状などによると、教頭は2001年ごろから、教育改革に関する改善策をまとめた論文を書き、教育関係者らに見せるなどしていた。07年7月になって、この論文を取り上げた専門家の論評が通信社の教育情報紙に掲載された。  その直後、教頭は県教委幹部らに呼ばれ、論文が「世間に出回っているのか」などと聴かれた。論文の「教員はあまりにも生徒の実態把握に消極的」「研修の多くは、教員の意識改革に結びついているようには思えません」といった記述について、県教委側から「研修については分析している」などと指摘され、暗に20カ所以上の修正を求められたという。また、当時在籍していた学校の校長を通じ、「他者に見せるな」とも指示されたという。  教頭は、県教委の行為は表現活動への違法な検閲で発表抑制行為に当たる、と主張。県教委と話し合ったが、「誠意ある回答がなかった」として提訴に踏み切った。  県教委教職員課の担当者は「訴状が届いていないのでコメントできない」と話している。』2010年7月16日9時56分2010アサヒ・コム

個人的に執筆した教育改革に関する論文は、県立高校の教頭先生が発表してはいけ無いと言う事自体おかしいことです。論文の「論文の「教員はあまりにも生徒の実態把握に消極的」「研修の多くは、教員の意識改革に結びついているようには思えません」といった記述について、県教委側から「研修については分析している」などと指摘され、」「研修の多くは、教員の意識改革に結びついているようには思えません」といった記述について、県教委側から「研修については分析している」などと指摘されたそうですが、この論文の内容が教育現場の声を反映している提言として受け止め、教員はあまりにも生徒の実態把握に消極的名と頃はいじめ問題での取組みから必要なことであり、研修の多くは、教員の意識改革に結びついていないようであれば、意識改革に役立つように改善すべきでは有りませんか。臭いものには蓋、教育現場意見や提案を聞き、改革しなければ今のいろいろと問題を抱えている学校は良くならないのでは有りませんか。戦前の命令主義の教育行政で、県教育委員会と管理職の県立高校の校長が馴れ合いのお団子三兄弟では、何時までたっても日本の教育は良くならず上位下達の教育行政では行き詰まり、教育現場の先生方の声や意見を無視しては教育改革どころか管理職の従順な先生ばかりで、子供達や保護者の要望や期待に応えれる学校になるでしょうか。教育現場の先生方が、自由闊達に意見が言え、お互いに話し合え議論が出来、自由に研究発表の出来る学校でないと山口県の教育も良くならないのでは有りませんか。封建時代の膿のような物の言えぬ学校では、戦前の軍国主義教育に逆戻りです。民主主義の教育の原則に反しているのでは有りませんか。吉田松陰の名言『君子は、何事に臨んでも、 それが道理に合っているか否かと考えて、 その上で行動する。 小人は、何事に臨んでも、 それが利益になるか否かと考えて、 その上で行動する。君子のように、道理に合った行動をすれば、後から利益がついてくる気がします。逆に、最初から利益にとらわれていれば、益も道理も失ってしまう。』「出典:『講孟箚記(上)』、吉田松陰、 近藤啓吾 全訳注、講談社、P159より引用。   

     

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「水俣病、触るな」サッカー試合中、相手に

2010年07月16日 12時58分04秒 | 受験・学校
『 熊本県芦北町で6月上旬に行われた中学校のサッカーの練習試合中、熊本県水俣市の男子生徒が相手選手に「水俣病、触るな」と言われていたことがわかった。 水俣市教育委員会( blog.goo.ne.jp/hansen_yajikita/e/<wbr></wbr>37330ffa80d036b3abb6f44e254449ca)
によると、接触プレー中に、相手チームの選手1人が複数の選手に対して差別発言をした。 試合後、水俣市側の顧問教諭の指摘を受け、発言した選手や顧問教諭、保護者らが謝罪。翌日には校長が同市教委を訪れ、「水俣病についてきちんと教育できていなかったかもしれない。申し訳ない」と陳謝した。 さらにその後、水俣病に関する教育が不十分だったとして同市教委の職員を招き、保護者集会や教員研修を開いたという。 水俣市の葦浦博行教育長は「水俣病に対する理解不足があったことは残念。今後も啓発に力を入れたい」と話している。』7月15日17時28分配信 読売新聞 )
昔から言われていますように独断と偏見や風評で、判断することは良く有りません。水俣市のチッソ水俣工場が、海に流した廃液、メチル水銀により惹き起こされた公害病です。記事によりますと 『熊本県芦北町で6月上旬に行われた中学校のサッカーの練習試合中、水俣市の男子生徒が相手選手に「水俣病、触るな」と言われていたことがわかった。水俣市教育委員会によると、接触プレー中に、相手チームの選手1人が複数の選手に対して差別発言をした』のは、本当に心無い発言で許せません。相手の中学校選手の多数の犠牲者を出した公害の原点と言われている水俣病の被害者の皆さんに対する心無い偏見と誤った考えの現れです。
四大公害病としての水俣病を被害の実態を正しく認識し、学んでいない証拠では有りませんか。『1992年に熊本県水俣市の中学校の調査で、水俣病の偏見から文通を断られたり、修学旅行でからかわれるなどの差別に悩むケースが多いことがわかる。』と 言うのも事実ですし科学技術時代の今でも医学的根拠に基づかない心の狭い島国根性から抜け出せない独断と偏見の大人からの子供達への影響と思います。昨年の新型インフルエンザの流行で多数の感染者を出した茨木市のK私立中高一貫校への風評や悪質なデマと嫌がらせも有りました。厚生労働省の迅速な対応と情報公開も必要です。
環境保護教育を通じて、日本の公害問題も過去のものとせずに学校教育の中で取組んでいく必要があるのでは無いでしょうか。日本の自然環境を守る為に海の環境汚染や保護を公害問題と一緒に考えて行くべきでは無いでしょうか。下記に水俣病の資料を掲載致しました。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『水俣病(みなまたびょう)は、チッソが海に流した廃液により惹き起こされた公害病である。 世界的にも「ミナマタ」の名で知られ、水銀汚染による公害病の恐ろしさを世に知らしめた。なお、舞台となった水俣湾は環境庁の調査によって安全が確認され、現在では普通に漁が行われている。

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概説

環境汚染による食物連鎖によりひきおこされた人類史上最初の病気であり、「公害の原点」といわれる。(2009年9月4日朝日新聞)

1956年熊本県水俣市で発生が確認されたことがこの病名の由来であり、英語では「Minamata disease」と呼ばれる。この後、新潟県下越地方阿賀野川流域で昭和電工が起こした同様の公害病の病名も水俣病であることから、これを区別するために前者を熊本水俣病、後者を第二水俣病または新潟水俣病(にいがたみなまたびょう)と呼称する。ただし、単に「水俣病」と言われる場合には前者を指す。水俣病、第二水俣病イタイイタイ病四日市ぜんそく四大公害病とされ、日本における高度経済成長の影の面となった。

原因物質の名称

原因物質は容易に確定されなかった。1958年7月時点では、熊本大学医学部研究班は原因物質としてマンガンセレンタリウム等を疑っていた。当時、水銀は疑われておらず、また前処理段階の加熱で蒸発しており検出は不可能であった。更に、有機水銀を正確に分析し物質中の含有量を測定する技術は存在していなかった。しかし、翌年熊本大学水俣病研究班は、原因物質は有機水銀だという発表を行った。これは、排水口周辺の海底に堆積するヘドロや魚介類から水銀が検出されたことによる。公式見解として、'メチル水銀化合物と断定したのは、1968年9月26日であった。 これは、水銀中毒であることは確かだが、当時、数ある有機水銀のうちのメチル水銀が原因であるという確証が得られなかったことに起因する。この物質がメチル水銀であったことはすぐに判明したものの、初期の曖昧な内容が東大医学部などの反論を招いた。そしてそれに対する再反論作成の必要に迫られるなどして原因特定の遅れを招くことになった。ただし当時の文献や、それを引用した文献では、原因物質は有機水銀と表記されていることがある

水俣病発生地域

日本国内

水俣病の名を付与されているものは、水俣市周辺(八代海沿岸)、新潟県阿賀野川流域。

日本国外

1970年代前後に中国吉林省から黒竜江省にかけての松花江流域で、メチル水銀および無機水銀による土壌汚染が明らかになった。1990年代になってアマゾン川流域でも水銀による住民の健康被害が確認された。中国のものは、吉林省吉林市にある化学工場の、チッソ水俣工場と同様の工程が原因。このほか、五大湖に面するカナダオンタリオ州グラッシイナロウズ、ホワイトドッグの地区などでも有機水銀中毒が報告されている。フィリピンミンダナオ島アマゾン川流域などの金鉱山下流の健康被害は採鉱で利用した金属水銀が環境中に放出され、一部は有機水銀に変化し魚介類にも蓄積されていることが明らかになっている。

臨床所見

おもな症状

水俣病はメチル水銀による中毒性中枢神経疾患であり、その主要な症状としては、四肢末端優位の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、聴力障害、平衡機能障害言語障害振戦(手足の震え)等がある。患者には重症例から軽症例まで多様な形態が見られ、症状が重篤なときは、狂騒状態から意識不明をきたしたり、さらには死亡したりする場合もある。一方、比較的軽症の場合には、頭痛、疲労感、味覚嗅覚の異常、耳鳴りなども見られる。

メチル水銀で汚染されていた時期にその海域・流域で捕獲された魚介類をある程度の頻度で摂食していた場合は、上記症状があればメチル水銀の影響の可能性が考えられる。典型的な水俣病の重症例では、まず口のまわりや手足がしびれ、やがて言語障害、歩行障害、求心性視野狭窄、難聴などの症状が現れ、それが徐々に悪化して歩行困難などに至ることが多い。これらは、メチル水銀により神経細胞が破壊された結果であるが、血管臓器、その他組織等にも作用してその機能に影響を及ぼす可能性も指摘されている。また、胎盤を通じて胎児の段階でメチル水銀に侵された胎児性水俣病も存在する。

上記のうち、いくつかの症状が同時に現れるものもあるが、軽度の場合には、臨床症状だけでほかの病気と識別診断するのは一般に困難である。このような様々な症状の程度は、一般にメチル水銀の曝露量に依存すると考えられるが、メチル水銀は既に体内に残留していないため、過去にさかのぼって曝露量を推定することは困難である。発症後急激に症状が悪化し、激しい痙攣や神経症状を呈した末に死亡する劇症型は、高濃度汚染時期に大量のメチル水銀を摂取し続けたものに見られる。この臨床症状は典型的なメチル水銀中毒であるハンター・ラッセル症候群(有機水銀を使用する労働者に見られた有機水銀中毒症)とよく一致し、これが水俣病原因物質究明の決め手となった。劇症型には至らないレベルのメチル水銀に一定期間曝露した場合には、軽度の水俣病や、慢性型の水俣病を発症する可能性がある。

一方、長らくの間、ハンター・ラッセル症候群という水俣病患者中最も重篤な患者、いわば「頂点」に水俣病像を限定してしまい、その「中腹」「すそ野」である慢性型や軽症例を見逃す結果を招いてしまったとの批判がある。人体では、メチル水銀自体は比較的排泄されやすい化学物質の一つであるが、中枢神経系などに入り込みやすく、胎盤を通過しやすいという化学的な性質を有しており、その毒性作用は神経細胞に生じた障害によるものである。いったん生じた脳・神経細胞の障害の多くは不可逆的であり、完全な回復は今のところ望めないが、リハビリによりある程度症状が回復した例は多数存在する。一方で、若い頃に健康であった者が、加齢にともなう体力低下などにより水俣病が顕在化する場合も考えられる。

重症例はもちろん、軽症であっても、感覚障害のため日常生活に様々な支障が出てしまう。例えば、細かい作業が出来ず、あるいは作業のスピードが落ちる。怪我をしても気付かず、傷口が広がったり菌が侵入する原因となる。こうしたことから、「危なくて雇えない」などと言われ、職を失ったとする証言は判決文や出版物中に複数存在する。 水俣病公式発見前後、劇症型の激しい症状は、「奇病」「伝染病」などといった差別の対象となった。こうした差別のため、劇症型以外の患者が名乗り出にくい雰囲気が生まれ、熊本大学研究班に送られてくる症例は劇症患者ないしそれに近いものだけとなり、ますます水俣病像 = ハンター・ラッセル症候群という固定観念が強くなってしまった。

原因

水俣病はメチル水銀による中毒性の神経系疾患である。メチル水銀中毒のうち、環境汚染の関与が認められるものをとくに水俣病と呼ぶとされ、環境汚染によってメチル水銀が魚介類等に蓄積し、それを摂取することによって発病したものを指す。なお、有機水銀が合成された理論的メカニズムは、今なお完全に明らかになっていない(これは、製造工程の設計時点では水俣病の発生を事前に回避することが難しかったことを示している)。

水俣病の発見と裁判

原因究明への動き

水俣湾とチッソ水俣工場の位置関係。1932年から1958年まで、水俣工場から排水路を経由して百間港に廃水が流された。その後は、1968年に水俣工場でのアセトアルデヒド生産が停止されるまで、排出先が水俣川河口に変更された。

日本で水俣病が集団発生した例は過去に2回ある。そのうちの一つは、新日本窒素肥料(現在のチッソ)水俣工場が、アセトアルデヒドの生産に触媒として使用した無機水銀(硫酸水銀)に由来するメチル水銀である。アセトアルデヒドは、アセチレンを希硫酸溶液に吹き込み、触媒下で水と反応させることにより生産される。工場は触媒の反応過程で副生されたアルキル水銀化合物(主として塩化メチル水銀)を排水とし、特に1950年代から60年代にかけて水俣湾八代海)にほぼ未処理のまま多量に廃棄した。そのため、魚にメチル水銀の生体濃縮が起こり、これを日常的に多量に摂取した沿岸部住民等への被害が発生した。1960年には新潟県阿賀野川流域でも同様の患者の発生が確認され、新潟水俣病と呼ばれる。これは、阿賀野川上流の昭和電工鹿瀬工場が廃棄したメチル水銀による。 メチル水銀中毒が世界ではじめて報告されたのは1940年イギリスである。このときはアルキル水銀農薬工場における、従業員の中毒例であった。ハンターとラッセルによって、運動失調、構音障害、求心性視野狭窄がメチル水銀中毒の3つの主要な臨床症状とされたため、これをハンター・ラッセル症候群と呼ぶ。

1959年7月に有機水銀説が熊本大学や厚生省食品衛生調査会から出されると、チッソは「工場で使用しているのは無機水銀であり有機水銀と工場は無関係」と主張し、さらに化学工業界をあげて有機水銀説を攻撃した。チッソ工場の反応器の環境を再現することで、無機水銀がメチル水銀に変換されることが実験的(理論的ではないことに注意)に証明されたのは1967年のことであったが、排水と水俣病との因果関係が証明されない限り工場に責任はないとする考えかたは、結果として大量の被害者を生みだし、地域社会はもとより、補償の増大など企業側にとっても重大な損害を生むもとになった。

原因の特定が困難となった要因としては次の事実もある。それは、「水俣病の科学」でも指摘されていることであるが、チッソ水俣工場と同じ製法でアセトアルデヒドを製造していた工場は国内に7カ所、海外に20ヵ所以上あり、水銀を未処理で排出していた場所も他に存在した。しかし、これほどの被害をひき起したのは水俣のみであり、かつ終戦後になってからである。この事実が有機水銀起源説への化学工業会の猛反発を招き、発生メカニズムの特定をとことんまで遅らせることとなった。

チッソ水俣工場では、第二次世界大戦前からアセトアルデヒドの生産を行っていたにもかかわらず、なぜ1950年過ぎから有機水銀中毒が発生したのかは、長期にわたってその原因が不明とされてきた。現在でも決定的な理論はまだ出現していない。だが、生産量の増大ならびにチッソが1951年に行った生産方法の一部(助触媒)変更による水銀触媒のアルキル生成物の上昇が患者の大量発生に関係したと考えられている。生産工程の変更は、アセトアルデヒド合成反応器内の硫酸水銀触媒の活性維持のために助触媒として使用していた二酸化マンガン硫化第二鉄に変更(近年の研究で二酸化マンガンが有機水銀の中間体の生成を抑える事が明らかになりつつある)したために、塩化メチル水銀などのアルキル水銀を多く発生させることとなり、それが排水として流されたと考えられている。また、チッソ水俣工場がアセトアルデヒド生産を開始したのは1932年からで、年間生産量は1954年までは209 - 9,159トンであったが、1950年代中頃から増産が続き、1956年には前年度の約1.5倍の15,919トンとなり、1960年には45,244トンで最高となった。また、当時の生産設備は老朽化が進んでいたが、経費削減で更新を怠ったため、廃液の流出が年々加速度的に増えつつあったことが当時の薬剤購入量から示されている。[4]このように、この時期の生産量の急激な増大や、老朽設備運転による廃液量の増加に代表される利益至上主義による化学プラントプロセス管理の無視、助触媒の変更等が組み合わさった結果、大量のメチル水銀の生成につながったと考えられている。最近の研究によると、工場から海域へ廃棄されたメチル水銀の量は0.6 - 6トンに達したと推定されている。

なお、自然の海域には無機水銀をメチル水銀に変換する細菌が存在するが、それらが生成するメチル水銀はごく微量であると熊本県は主張している(実際には、誰も研究しておらず、現在水俣湾の有機水銀濃度が増えたというデータは存在しないだけである)。「水俣病発生当時、工場はメチル水銀を流していなかった」、「自然の海域で無機水銀から生成した有機水銀が水俣病の原因となった」などの主張に根拠はない。

そもそもの遠因として挙げられるのは、当時世界中で採用されていたアセチレン法アセトアルデヒド工法である。これはあくまで「経験的」に効率よい水銀の安定回収ができる工法であり、有機水銀の中間体が出来ることは誰も気づかなかったのである。

発見に関わる経過

既に1942年頃から、水俣病らしき症例が見られたとされる。1952年頃には水俣湾周辺の漁村地区を中心に、猫・カラスなどの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった(このころは「猫踊り病」と呼ばれていた)。

  • 1946年:日本窒素がアセトアルデヒド,酢酸工場の排水を無処理で水俣湾へ排出。
  • 1949年頃:水俣湾でタイ,エビ,イワシ,タコなどが獲れなくなる。
  • 1952年:熊本県水俣で最も早期の認定胎児性患者が出生。ただし認定は20年後。
  • 1953年:熊本県水俣湾で魚が浮上し,ネコの狂死が相次ぐ。以後,急増。
  • 1954年:8月1日付熊本日日新聞で、ネコの狂死を初報道。

水俣病患者で最古の症例とされるのは、1953年当時5歳11ヶ月だった女児が発症した例であるが、患者発生が顕在化したのは1956年に入ってからである。新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、1956年5月1日、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。この日が水俣病公式発見の日とされる。