長崎県平戸市沖で昨年4月に死者・行方不明者12人を出した巻き網漁船、第11大栄丸の沈没事故で父親を亡くした女子高校生(17)が、男性教諭の授業中の不適切な発言で体調を崩し、適応障害になったとして、県弁護士会人権擁護委員会(迫=はざま=光夫委員長)に人権救済を申し立て、受理された。家族が18日、同県佐世保市内で記者会見して明らかにした。 家族の説明によると、生徒は私立西海学園高校(佐世保市、菅沼宏比古校長)に通っている。事故からまもなく、50代男性の国語教諭が古典の授業中、古語の意味を説明する中で「親が死んだことは風流だ。人はいつ死ぬかわからんからな」と言ったという。 生徒はその後、教諭の姿を見たり声を聞いたりしただけで過呼吸の症状が現れるようになった。同年11月に適応障害と診断され、今春までほとんど通学できない状態が続いた。今月から徐々に教室で授業を受け始めている。校長と教諭は昨年9月、生徒と家族に謝罪したという。 学校側によると、教諭は昨年7月の授業で「方丈記」の無常観に触れた際、「人はいつ死ぬかわからない」と言ったと認めたものの、「風流」との発言は否定しているという。菅沼校長は「いずれにせよ配慮を欠いた発言だったのは事実だ」と話している。』 アサヒコム
この女子高校生に取って、大切な父親の死は、風流と言えるでしょうか。国語の先生としての言葉の使い方が不適切だと思います。言動には、教育者として、国語の先生として責任を持つべきです。風流の意味は、上品な趣、おもむきがあること。みやびやかなことを表しています。方丈記の無常観は、『無常(むじょう、Skt:anitya)は、この現象世界のすべてのものは生滅して、とどまることなく常に変移しているということを指す。釈迦は、その理由を「現象しているもの(諸行)は、縁起によって現象したりしなかったりしているから」と説明している。常に変化して、止まないのが釈迦の正しい教えです。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部引用 』「万物は常に変化し続け、変わらないものはない 」と千葉県成田市長寿院御住職篠原鋭一御老師に教わりました。この国語の先生「親が死んだことは風流だ。人はいつ死ぬかわからんからな 」と言うのは、人の痛みの分からない、女子生徒の父親を失った痛みの分からない発言です。肉親を失った者しか分からない悲しみも教育者とし考えるべきです。両親を続け失った私には良く分かります。人は何時死ぬか分かりません。この先生だって、命、寿命は神様しか分かりませんよ。無常は、無情を意味しているものではないのです。長崎県平戸市沖で昨年4月に死者・行方不明者12人を出した巻き網漁船、第11大栄丸の沈没事故で父親を亡くした女子高校生の心情を理解していないのです。漁業に携わる人の仕事の危険性を表した諺に 『板子一枚下は地獄 』と言う諺が有ります。船乗りは危険な仕事で海が荒れたり海に落 ちたりして、いつ死ぬか分かりません。漁業を生業とする仕事の厳しさや海に生きる人達の大変さを教育者とし理解していたかどうかが疑問です。御自分もお父さんを亡くされた時この女子高校生の痛みが分かるのでは有りませんか。生徒の痛みが分からない高校の先生では困ります。今人の死を人事のように思っている無慈悲な人も増えたのでしょうか。明日の事一時後事も分かりません。神のみぞ知るです。一期一会の精神で、高校の古典の授業で、方丈記の鴨長明の作品を通じて人間の命の大切さや生きると言う意味を考えて下さい。下記に千葉県成田市曹洞宗長寿院御住職篠原鋭一御老師の著書を掲載させて頂ました。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用
無常
釈尊が成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)という。この「無常」を説明するのに、「刹那無常」(念念無常)と「相続無常」の二つの説明の仕方がある。刹那無常とは、現象は一刹那一瞬に生滅すると言う姿を指し、相続無常とは、人が死んだり、草木が枯れたり、水が蒸発したりするような生滅の過程の姿を見る場合を指して言うと、説明されている。この無常については、「諸行無常」として三法印・四法印の筆頭に上げられて、仏教の根本的な考え方であるとされている。なお大乗仏教では、世間の衆生が「常」であると見るのを、まず否定し「無常」であるとしてから、仏や涅槃こそ真実の「常住」であると説いた。これを常楽我浄と言うが、これについては大乗の大般涅槃経に詳しい。日本人と「無常」「祇園精舎の鐘の声」で始まる軍記物語『平家物語』、吉田兼好の随筆『徒然草』、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」で始まる鴨長明の『方丈記』など、仏教的無常観を抜きに日本の中世文学を語ることはできない。単に「花」と言えばサクラのことであり、今なお日本人が桜を愛してやまないのは、そこに常なき様、すなわち無常を感じるからとされる。「永遠なるもの」を追求し、そこに美を感じ取る西洋人の姿勢に対し、日本人の多くは移ろいゆくものにこそ美を感じる傾向を根強く持っているとされる。「無常」「無常観」は、中世以来長い間培ってきた日本人の美意識の特徴の一つと言ってよかろう。
Yahooのベストアンサーより引用
方丈記「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、よどみに浮かぶう...http:// detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/<wbr></wbr>question_detail/q127408297
monofdsaさん
『方丈記
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」
どういう意味ですか?
one_aristocratさん
川の流れは、とどまる事はない。
しかも、流れる水は同じ水ではない。
水の淀みに浮かぶ泡沫(あぶく)は、消えてはまた現れ、永遠にそこに存在するものではない。
多少、意訳しましたが、万物は常に変化し続け、変わらないものはない、という意味です。
その後に出てくる「世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」以降につながります。
人の世の中も同じようなもので、富貴名誉享楽とかいったものは、その場限りのものである。方丈記「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、よどみに浮かぶう...
monofdsaさん
方丈記
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」