CNN.co.jp 5月12日(土)13時3分配信
ポーランドの石油会社の社員が発見し、保存状態は極めて良好で、機体、主翼と尾翼、操縦室の計器類の大部分が無傷の状態で残っており、専門家らは「まさに奇跡」と驚きを隠さない。
当時24歳だった英国空軍のデニス・コッピング軍曹は同戦闘機の修理のため、別の空軍基地に向かっていたが、途中で方向を誤り、その後サハラ砂漠に墜落した。
戦史家アンディ・サウンダース氏は、コッピング軍曹は飛行中に頭が混乱したと見ている。
そして軍曹が過ちに気付いた時には、すでに燃料不足で引き返せない状況だった。墜落現場には、日よけとして使ったと見られるパラシュートなど、軍曹が無事に着陸したことを示すいくつかの証拠が残されていた。
しかしサハラ砂漠の猛暑の中で、そう長くは生きていられなかったと見られる。
パラシュートは空から発見してもらうための目印になるし、上空を通過する飛行機に向かって光を反射させるための鏡やわずかながら発煙筒もあったはずだ。それにも関わらずなぜコッピング軍曹は飛行機を離れたのか。
サウンダース氏は「恐らく、誰も助けに来ないと悟って自暴自棄になり、助かる唯一の方法は助けを求めて歩きだすことだ」と考えたのだろうと推測する。
コッピング軍曹の話が知られるようになり、英国当局はこの戦闘機を英国に持ち帰り、ロンドンにある英国空軍博物館に展示したいと考えている。
現在、博物館の代表がエジプトの英国大使館と英国防省と連携して輸送手段などを検討中だ。』
カーチス P-40 (Curtiss P-40) は第二次世界大戦期のアメリカ陸軍の戦闘機である。愛称はウォーホーク (Warhawk) ・トマホーク (Tomahawk)・キティホーク (Kittyhawk) などがある。アメリカ陸軍のみならず連合国でも多数つかわれた。性能的には平凡な機体であったが、実用性が高く常に量産体制が整っていた事もあり、他の戦闘機の補完に使われた。総数13700余機生産された。
概要
1938年、P-36の改造型として空冷エンジンを液冷のアリソンエンジンに換装しXP-40として初飛行した。この機体は、最大速度で原型のP-36よりも70kmも速かったので、直ちに量産命令が出てフランスに援助機として振り向ける事となった。しかし1940年のフランス敗戦により、援英機として、トマホークの名でイギリスに供与された。
日中戦争で日本軍の攻勢に苦しんでいた中華民国の蒋介石の妻で、国民党航空委員会秘書長でもあった宋美齢のアメリカ軍への呼びかけにより、中華民国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられたクレア・リー・シェンノートにより、アメリカの「義勇兵」パイロットで編成されたAVG(フライング・タイガース)はP-40を129機装備し、国民党軍を支援するため中国で活動した。
日本軍の九七式戦闘機や九七式重爆撃機、少数の隼(加藤隼戦闘隊)を相手に一撃離脱戦法で戦い、1941年12月20日~翌年6月12日の解散までに「フライング・タイガース」側の記録では撃墜・撃破171機(日本側記録89機)の戦果をあげ、自らは80機を失ったとされた(この「撃墜記録」は、報奨金獲得のために水増しされているとの意見もある)。
また、1941年12月の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時にアメリカの植民地のフィリピンに配備されていた同機は、零式艦上戦闘機や一式戦闘機「隼」をはじめとする日本機の邀撃に当たったが空戦性能に遅れをとり劣勢に立たされた。
連合軍は後に武装の貧弱さと高度性能の改善をはかり、マーリンエンジン搭載に改良したF型を投入し、これを「ウォーホーク」と称した。P-40Fは高々度において、はるかによい性能を発揮した。しかし、あまり多数のマーリンエンジンは入手できなかった。というのは、よりすぐれたノースアメリカン P-51 マスタング にそのエンジンの優先権が与えられていたからである。
エンジンと武装の改良を繰り返し最終のQ型まで総数13,738機生産された。地味ではあるが大戦の前期に連合国各国へ供与された機体は、日本軍やドイツ軍に対して劣勢な中で重要な使命を担った。
なお、大日本帝国陸軍は完全な状態のP-40を数機鹵獲し、内地に送りテスト飛行や研究用に使用した。なおビルマ戦線のラングーンでは、従来の日本機より迎撃能力が高いと判断され、少数の鹵獲P-40による臨時の防空隊が飛行第五十戦隊の高野明中尉(陸士53期)以下4名の操縦者と整備隊で結成された。しかし初陣の夜間迎撃では飛行第十二戦隊所属の九七式重爆を誤って不時着大破させるなど、活躍することなく、三ヶ月後の5月26日に解散している。[1]。
1943年11月当時大学生だった佐々木陸軍少尉は、陸軍航空技術研究所で鹵獲展示されたP-40に搭乗。防弾装備と、小便を機外に排出するため操縦席に備え付けられた蛇腹状の管を見て、人間工学を配慮した設計に感銘を受けている[2]。
2012年5月12日第2次世界大戦中エジプトのサハラ砂漠に墜落した英軍の戦闘機キティホークとみられる残骸が大部分無傷で発見された。
派生型
- XP-40:試作機。
- P-40:初期量産型。199機中、P-40A(1機)、P-40G(44機)に改修。残りはRP-40と改称。
- トマホークI:フランス空軍向けのP-40を、フランス降伏によりイギリス空軍が受領した機体。
- トマホークII:トマホークIの改良型。
- P-40A:非制式の写真偵察機。1機のみの改造。RP-40とは異なる。
- P-40B:翼内7.62mm M2機銃を各1挺増、計4挺に。防弾燃料タンク採用。
- トマホークIIA:イギリス空軍向けのP-40B。翼内武装7.7mm機銃×4挺。
- P-40C:燃料タンク防弾装備の改良。ただし飛行性能は犠牲となった。
- トマホークIIB:イギリス空軍向けのP-40C。
- P-40D:エンジンを換装(V-1710-39(-F3R))、武装・防弾設備の改良などを行うが22機の生産のみ。
- P-40E:翼内12.7mm M2機銃×6挺に変更。
- キティホークI:フランス空軍発注のP-40D。イギリス空軍が560機購入。
- キティホークIA:イギリス空軍向け(供与)のP-40E-1。
- P-40F:翼内12.7mm M2機銃×6挺。発動機をマーリン28型(パッカードV-1650-1)に換装。F-5から胴体後部を長胴化。
- キティホークII:イギリス空軍向け(供与)のP-40FあるいはP-40L。
- P-40G:P-40にトマホークIIAの7.7mm機銃×4挺仕様の主翼、防弾鋼板・防弾ガラスを装備。試作1機+43機改修。
- P-40J:高高度戦闘機型。排気タービン装備予定。計画のみ。
- P-40K:E型のエンジン換装型(V-1710-73)。安定性向上のため垂直安定板前縁にフィン追加(短胴型)。K-10から胴体尾部を長胴化。
- P-40L:F型の軽量化型。期待されたほどの性能向上はなかった。
- P-40M:K型(長胴型)のエンジン換装型(V-1710-81(-F20R))。
- キティホークIII:イギリス空軍向け(供与)のP-40K-1あるいはP-40LまたはP-40M。
- P-40N:軽量化された最終生産型。約5,000機生産。N-2以降新型キャノピーに改装。
- キティホークIV:イギリス空軍向け(供与)のP-40N。一部ソ連にも渡る。
- TP-40N:P-40Nの胴体燃料タンクを廃し、複座化した練習機型。
- P-40P:マーリンエンジンで計画されるが実現せず、P-40N-1/-5となる(のちのN-40、4翅プロペラ化など諸説あり)。
- XP-40Q:2段式スーパーチャージャー装備のV-1710-121に換装、水滴型風防装備、冷却システム更新など徹底改良された試作機。最高速度680km/hを出すP-40最高性能モデルだがP-51などの新鋭機には及ばないため採用されなかった。
- P-40R:F型・L型のV-1650-1をV-1710-81に換装したタイプ。計123機の改修にとどまり、主に訓練用に運用。
スペック
(P-40N-20)型
出典:第2次大戦アメリカ陸軍機の全貌[3]
- 乗員:パイロット 1 名
- 全長:10.10 m
- 全幅:11.38 m
- 全高:3.70 m
- 主翼面積:21.92m2
- 空虚重量:2810 kg
- 運用時重量:-- kg
- 最大離陸重量:5160 kg
- 動力:アリソンV-1710-99レシプロエンジン
- 出力:1200HP
- 最大速度:565 km/h
- 巡航速度:467 km/h
- 航続距離:1740km
- 実用上昇限度:10,270 m
- 上昇率:4270m/7.3min
- 武装:12.7mm 機関銃×6
- 爆弾: 225kg