防衛省は10日、東京・市ケ谷の同省敷地内にある旧日本陸軍の地下壕(ごう)を報道陣に公開した。

 現在の防衛省の敷地内には戦時 中、大本営陸軍部など旧陸軍の中枢部が置かれていた。地下壕の建設は日米開戦前の1941(昭和16)年8月に開始。大本営の建物前の地下14メートル に、幅4.6メートル、奥行き50メートル、高さ4メートルの大きな通路3本を南北に「川」の字に掘り、さらに、これに交差する2本の東西方向の連絡路が 掘られた。

 天井部分は、厚さ4メートルのコンクリートで補強。壕と地上を結ぶ通気孔は、空襲の爆風を防ぐために途中で屈曲が設けられ、地上部分は石灯籠(いしどうろう)で偽装していた。通路の一部は陸相の部屋として仕切られていたとされ、仕切りや土台部分も残っている。

 報道陣はこの日、高台にあった大本営の建物から離れた傾斜地の低い場所に設けられた入り口から壕内へ入った。内部は薄暗く、ひんやりと湿った空気が漂う。地上の暑さとは無縁の世界だ。

 壕では終戦間際の45年8月、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相が、ポツダム宣言受諾を決断した昭和天皇の「聖断」を将校らに伝えたとも言われている。しかし、それを裏付ける資料はなく、地下壕自体の詳しい資料も残っていないため不明な点が多い。

 報道陣への地下壕の公開は2004年以来。戦後は旧防衛庁の見学コースの一部だったが、80年代に同庁の市ケ谷への移転事業開始で見学コースから外れている。【町田徳丈】


旧、大本営陸軍部の地下壕(ごう)の壁の色が、戦争中、戦後と74年間の歴史の流れを見て来たと言えます。