教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

14日に閣議決定される安倍首相の70年談話には「おわび」のことばは盛り込まれない。天木直人のブログ

2015年08月10日 15時50分52秒 | 国際・政治

 

天木直人のブログ

Home / Archive by category "天木直人のブログ"

私が安倍首相なら「おわび」の言葉を談話に盛り込む

 そう一面トップでスクープ記事を書いたのはきのう8月9日の朝日新聞だった。

 

 安倍首相は7日夜に自民・公明両党幹部に原案を示し、その中にはおわびのことばが盛り込まれていなかった、それがわかったというのだ。

 

 その後、同様の記事を各紙も書き始めた。

 

 本当にそうなのか。

 

 私は朝日新聞がそう大きく書いたとき、私の予想が外れた、いよいよ、安倍首相はなにもかも強気で押し通すつもりだ、と一瞬思った。

 

 しかし、きょう8月10日の毎日新聞の記事を読んで思い直した。

 

 その記事もまた、「おわび」素案に盛らず、という見出しで書かれている。

 

 しかし、私が注目したのは、最終調整の段階にあると書かれていたことだ。

 

 そしてある政府関係者の言葉として、次のように書かれていたことだ。

 

 「首相はおわびの気持ちが十分に出るように考えるだろう」と。

 

 やはり、そうだったのだ。

 

 安倍首相は、かなりまえからそう決めていたに違いない。

 

 表現こそおわびという言葉は使わないが、その趣旨が中国、韓国に伝わるような表現でおわびを示すことを。

 

 谷内安保局長が訪中したのはそれを内報するためだったのではないか。

 

 そのことはまた山口公明党代表の顔を立てることでもある。

 

 明仁天皇の気持ちにも沿うことになる。

 

 こう考えればすべてに合点がいく。

 

 原案ではおわびの言葉をあえて盛り込まず、メディアにあえてそう書かせ、皆にそう思わせておいて、最後にサプライズの形でおわびの気持ちを表現する。

 

 安倍首相の起死回生の手はこれなのだ。

 

 私だったらそうするだろう。

 

 その予想が外れれば、安倍首相はさらなる苦境に追い込まれる。

 

 やはり安倍はバカだったということになる(了)

 

 

Posted on 2015年8月10日 Naoto Amaki 

 Posted in 天木直人のブログ

米盗聴に鈍感な日本を笑うニューズウィークの巻頭記事

 

 発売中のニューズウィーク日本語版(8月11・18日号)の巻頭記事には、さきの訪米時に撮ったと思われるオバマ大統領と安倍首相の車中の写真が大きく掲げられている。

 

 長い脚を組んだオバマ大統領が、手振り身振りで、なにやら盛んに安倍首相に語りかけ、それを安倍首相が神妙な顔をして聞いている写真だ。

 

 そして、その記事は「同盟国アメリカの盗聴で日本の情報は筒抜け」と題して、要旨次のように書かれている。

 

 米国家安全保障局(NSA)が日本を盗聴していた内容まとめた米政府内部文書を、ウィキリークスが7月末にすっぱ抜いた。

 

 ウィキリークスの創始者ジュリアン・アサンジュはこう記している。「日本にとっての教訓はグローバル監視超大国(米国)が誠意や敬意を持って行動すると期待してはならないということだ。ルールは一つしかない。それは、ルールなどないというルールだ」

 

 盗聴の標的となった35の電話回線の中には、内閣府、黒田日銀総裁など日銀と経済産業省の関係者、三菱商事、三井物産なども含まれていた。

 

 盗聴は006年ー2007年の安倍第一次政権にまでさかのぼり、首相官邸での極秘の話し合いの内容まで米政府に漏れていた。

 

 日米は50年以上にわたる同盟国。この春、安倍首相が訪米した際、オバマ大統領は日本を「世界で最も緊密な同盟国のひとつ」と呼んでいたのだが・・・

 

 この辛辣な書き方は、冒頭の掲載写真と相まって、日本がいかに米国からコケにされてきたかを嘲笑しているのだ。

 

 実際のところ、このニューズウィークの記事を読めば、今回明かされた米国の国家ぐるみの盗聴は、日本にとってこれほど衝撃的なものはないことがわかる。

 

 なにしろ米政府は盗聴内容をすべて盛り込んだ報告書を作成し、政府内で回し読みしてたのだ。

 

 文字通り裸にされていたのである。

 

 アサンジュが日本の盗聴に的を絞って公開したのも、こんなことでいいのかと日本政府の対米従属ぶりに警鐘を鳴らすためだったに違いない。

 

 それにも拘わらず日本の対応はあまりにも鈍い。

 

 唯一、きょう8月10日の産経新聞が、その社説でカンカンに怒っている。

 

 これほどの疑惑を抱えたままでは「不動の同盟国」と胸を張ることなど到底できないと。

 

 まさかバイデン副大統領の謝罪電話で幕引きするつもりではあるまいなと。

 

 安倍首相が直接、オバマ大統領に対し、米国の謝罪と再発防止の確約を取り付けるべきだと。

 

 この当たり前の国民の思いを、誰も言わない。書かない。

 

 朝日新聞が書くことは絶対にない。

 

 私が産経新聞を評価するのは、時として前後の見境なく、その当たり前の事を馬鹿正直に書くからである(了)

 

 

Posted on 2015年8月10日 Naoto Amaki 

 Posted in 天木直人のブログ

噴飯物の朝日新聞の「被爆70年の日本」という社説

 

 

 きょう8月10日の朝日新聞は、「被爆70年の日本 核なき世界近づけるには」と題する仰々しい社説を掲げた。

 

 広島、長崎の原爆記念式典が終わった日にあわせて、満を持して掲げた大社説だ。

 

 しかし、その内容は噴飯物である。

 

 安保法制案成立にこだわり、非核三原則に触れなかった広島演説などに言及して安倍首相の好戦的姿勢を批判する一方で、被爆国である日本が率先して核兵器のない世界の実現を各国に呼びかけるべきだ、とりわけ核なき北東アジアの実現を率先すべきだ、それこそが被爆者の悲願にこたえる道である、と締めくくっている。

 

 安倍首相をいくら批判しても異存はない。

 

 しかし、世界や北東アジアの核廃絶を安倍外交に求めるのはお門違いだ。

 

 そんなことは誰が日本の首相になったところで、できはしない。

 

 それは朝日新聞も百も承知のはずだ。

 

 なぜ朝日新聞は米国の核独占政策を批判しないのか。

 

 なぜ就任直後に核廃絶演説をしておきながら、8年間もの間、その公約を本気で実現しようとしなかったオバマ大統領を糾弾しないのか。

 

 なぜ日本は日米同盟という米国の核の傘から自立し、その対極にある憲法9条を掲げた外交に舵を切る時だ、と書かないのか。

 

 そこには核廃絶に向けた米国の責任を追及する言葉は一言もない。

 

 「親米リベラル」朝日の正体がここにある。

 

 そして「親米リベラル」こそ、無意識のうちに日本国民を対米従属に縛り付ける元凶である。

 

 私が噴飯物の社説であると書いた理由がここにある(了)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幻の戦闘機「震電」:「逆らえず」博多織工場で部品製造)

2015年08月10日 15時05分27秒 | ニュース

毎日新聞 8月3日(月)9時45分配信 ◇伝統工芸の職人も「兵器」製造に動員

 旧日本海軍が開発し、終戦直前に完成した幻の戦闘機「震電(しんでん)」の部品が、福岡市の博多織の工場で作られていた。徴兵で不足した技術者や、空爆 を受けた軍需工場の穴を埋めるためだが、伝統工芸の職人も兵器製造に動員させられていたことはあまり知られていない。震電は実戦に投入されることなく終戦 を迎え、関係者は悔しかったというが、今は自負心と安堵(あんど)という複雑な思いを交錯させている。
 震電の開発計画は1942年に始まった。高空から本土を空爆し始めた米爆撃機の迎撃が目的だった。短時間で急上昇できるようにするため、主翼と水平尾翼の位置を逆にし、プロペラを機体後部に設置したのが特徴だ。
 製作は現在の福岡市博多区にあった軍事航空機メーカー「九州飛行機」が担ったが、同社工場が空爆の被害に遭い、各地の学校や地下施設が工場に使われた。 周辺にある他の業種の工場も協力を求められた。その一つが、明治末からの歴史がある博多織の「後藤織工場」(現・博多輸出絹織(きぬおり)、福岡市南区) だった。
 当時の社長、後藤長兵衛さん(99)や10年前に書かれた自叙伝などによると、44年4月、後藤さんは県の商工課長から突然、航空機部品の製造を命令された。「博多織から軍需産業に転業とは、いくらなんでも、と驚いた」と回顧する。
 だが「当時の情勢では逆らうことはできず」、木材加工すら経験がない職人たちは、知り合いの「風呂桶(おけ)職人」らを招き、四苦八苦しながら材木を削ったり曲げたりした。震電の水平尾翼や哨戒機の胴体などを製作した。
 震電は2機が完成し、45年8月3日、福岡で試験飛行された。地元郷土史家の岡部定一郎さん(84)は、このころ低空を飛ぶ戦闘機を目撃している。 「キュウリのような戦闘機がシュッと一瞬で見えなくなった。速さに驚いた」。最近、写真を見て震電だったと気付いたという。しかし、終戦によって実戦で飛 ぶことはなかった。
 後藤さんは戦後、博多織の振興に努める一方、戦闘機の製作については多くを語らなかった。ただ、後を継いだ長男(63)は、後藤さんから「お国のためにやっていた。三日三晩作業しても疲れなかった。飛ばずに悔しかった」という話を聞いている。
 半面、複雑な思いもあったようだ。後藤さんは長崎原爆の翌日、長崎市を訪れ被爆している。軍需工場を引き受けた以上、自分の工場の職人たちも空爆の脅威 にさらされる恐れがあると思い、新型爆弾の威力を確かめるためだった。「死体があちこちにあり、ひどかった」。長崎の惨状を前に、戦闘機製造の自負心とは 逆に「戦争はしてはいけない」との思いにも駆られた。
 後藤さんは今、「決して愉快な思い出ではない」と振り返る。一方、長男は父がかつて言ったことを覚えている。「戦闘機が飛ばなくて良かった。人を傷つけていたかもしれない」【尾垣和幸】

 九州の軍事施設に詳しい大刀洗平和記念館顧問の北原勲さんの話 戦争末期は戦況の悪化で、各地で航空機の製造が他業種の工場に分散されていった。ただ一 般には鉄や木材を扱うのに慣れた業種が多く、博多織の工場でも作らされていたのは驚きだ。強制された人々は「日本の勝利のため」という気持ちで協力したの だろう。

 

 

 

 

九州飛行機雑餉隈工場で斜め後ろから撮影された戦闘機「震電」の試作1号機

九州飛行機雑餉隈工場で斜め後ろから撮影された戦闘機「震電」の試作1号機

B29爆撃機の迎撃のために作られた戦闘に参加せずに終わった世界的に珍しいの機体の形式とエンジンの構造を持った最期の旧大日本帝国海軍の戦闘機「震電」です。生産資材が乏しく、航空機製造の熟練工が出征して不在の中、専門家外の方々が苦心と苦労を重ねて作られじ津さいに飛行した戦闘機「震電」と言えます。

 

 

 

出典・ウィクペディア

震電

 

J7W1 震電

 米軍の命令により外観のみ修復した試作1号機(1945年撮影)

 米軍の命令により外観のみ修復した試作1号機(1945年撮影)

震電(しんでん)は第二次世界大戦末期に日本海軍が試作した局地戦闘機である。前翼型の独特な機体形状を持つ、最高速度400ノット(約740km/h)以上の高速戦闘機の計画で、1945年(昭和20年)6月に試作機が完成、同年8月に試験飛行を行い終戦を迎えた。略符号J7W1連合国側のコードネームは「Felix」(フェリックス)。

歴史

研究開発

 
震電のスケールモデル

1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)頃、海軍航空技術廠(空技廠)飛行機部の鶴野正敬大尉は従来型戦闘機の限界性能を大幅に上回る革新的な戦闘機の開発を目指し、前翼型戦闘機を構想し、研究を行っていた[1]。また、1943年(昭和18年)、軍令部参謀に着任した源田実中佐は、零戦が既に敵から十分研究されているであろうと考え、零戦とは別に異なる画期的な戦闘機を求めて高速戦闘機を模索していたが、技術的に提案する知識がなかった。しかし、同じ考えを持つ鶴野正敬技術大尉の存在によって、震電の開発が動き出した[2]

前翼型飛行機とは、水平尾翼を廃して、かわりに主翼の 前に(水平な)小翼をつけた形態の飛行機を指す。従来型戦闘機ではエンジン、プロペラ、武装の配置が機体の前方に集中しており、操縦席後部から尾翼にかけ ての部位が無駄なスペースとなっていた。これに対し前翼機では武装を前方、エンジン及びプロペラを後方に配置することで機体容積を有効に活用でき、同じ重 量の武装であれば機体をより小型にすることが可能となる。従って機体が受ける空気抵抗も減少し、従来型戦闘機の限界速度を超えることが可能となる、という のがその基本理論であった[3]

日本では初となる前翼型戦闘機の試みであったが、当時の各国でも前翼機の試作は行われていた。代表的な例として米国のXP-55 アセンダー、イタリアのアンブロシーニS.S.4(de:Ambrosini S.S.4)、英国のマイルズ・リベルラ等が挙げられるが、いずれも実運用に至ったものはなかった。震電の開発に当たっても中には「自然界に無い様な形状のものには何かしらの欠点があるはずだ。鶴野はそれに気づいていないのだ。」という様な意見をもつ者もあった[4]。しかし、米国新型機への対抗という課題の中にあって、原理的に間違いのないものであるならと大方の賛同を得ていた[3]

1943年(昭和18年)8月、空技廠にて風洞実験が行われる。1944年(昭和19年)1月末、実験用小型滑空機(MXY6)を用いて高度およそ1000m程からの滑空試験に成功し基礎研究を終えた[5]。既に米国爆撃機の本土来襲を予測していた海軍は、翌2月には試作機の開発を内定。実施設計及び製造を行う共同開発会社として、当時、陸上哨戒機「東海」の開発が完了し、他の航空機会社に比べ手空きであった九州飛行機が選定され、空技廠からは鶴野大尉らが技術指導のため同社へ出向した。

要求性能を決定する際、用兵者側から空戦フラップの装備を要求する声があったが、航空技術廠飛行機部、科学部はその効果を疑問視して巴戦を避けて高 速一撃離脱をとる意見であった。軍令部参謀の源田実中佐から「400ノット以上の高速戦闘機が欲しいからこれをやるのであり、あまり付帯要求を出しすぎて 速度が落ちるようなことがあってはならぬ」という指導的意見があり、鶴野正敬は要求性能をまとめられた[6]

試作

 
震電を再現したCG
 
九州飛行機 J7W 震電 運用想像CG

1944年(昭和19年)5月、B-29の迎撃を最大の目的として、十八試局地戦闘機震電が正式に試作発令される。当初、海軍の要求は1944年の4月から製図に取り掛かり、同年末には機体を完成させよというものだった。このため、九州飛行機では近隣は元より、奄美大島種子島熊本などからも多くの女学生、徴用工を動員し体制を整えた。その数は最盛期には5万人を超え、量産に移った際には月間300機の生産を可能とする目算が立っていた。また資材については、将来的に比較的余裕のある鉄で作る事を考えよとの要求もあった[7]

1944年6月16日未明、本土北九州方面八幡に初のB-29来襲。震電開発チームは撃墜機を実地見学。

1944年11月、技術者を集結させた九州飛行機は通常1年半は掛かる製図作業をわずか半年で完了。約6000枚の図面を書き上げる。同月ヘンシェル社のドイツ人技師、フランツポールが訪問。同氏所見をもとに多量生産的見地にたった改造図面の作成に着手。

1944年12月から1月にかけて、震電への搭載が予定されていた「ハ四三」四二型発動機の開発にあたっていた三菱重工の名古屋工場が、断続的に行われたB-29の空爆により再起不能の壊滅的な被害を受ける。開発の大幅な遅延に繋がる。

1945年(昭和20年)3月、大刀洗飛行場への爆撃を受けて、現在の筑紫野市原田へと九州飛行機は工場の疎開を決定。部品の運搬は牛車で夜中に行われた。

1945年6月、1号機が完成し蓆田飛行場(現在の福岡空港)へ運搬。翌7月完工式。鶴野自身による滑走試験中、機首を上げ過ぎたために、プロペラ端が地面に接触して先端が曲がってしまう。この後、プロペラを試作2号機用の物と交換、機首上げ時にプロペラが接触しないよう側翼の下に機上作業練習機白菊の車輪が付けられた。(量産機では主脚の接地位置をうしろにずらし、垂直尾翼の下に車輪は付けない予定であった)

1945年8月3日、試験飛行にて初飛行に成功。続く6日、8日と試験飛行を行ったが、発動機に故障が発生し三菱重工へ連絡をとっている最中に終戦となった。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東北新幹線 走行中窓にひび

2015年08月10日 13時47分29秒 | ニュース

 

2015年8月10日(月) 12時36分掲載

<東北新幹線>トンネルを走行中、窓ガラスにひび 福島

 福島県の郡山-福島駅間を走行していた東北新幹線の客室の窓ガラスに9日、クモの巣状のひびが入った。JR東日本福島支店は10日、窓ガラスの写真を公表。原因は分かっていないという。(毎日新聞)

窓ガラスの強度に問題が有るのではありませんか。温度差や最高速で走る新幹線の窓ガラスの材質と品質管理と思います。日本生産メーカーが、国内の工場で厳しい品質チェツクの元作られたものなのでしょうか。新幹線の「安全神話」に胡坐を掻かないで、大きな事故が起きないように安全総点検が必要な時期です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民副総裁「核兵器運搬ありえない」記事のタイトルを入力してください(必須)

2015年08月10日 11時13分17秒 | 国際・政治
TBSの動画ニュースサイト News i

 

自民副総裁「核兵器運搬ありえない」

 自民党の高村副総裁は9日、松江市で講演し、安全保障関連法案をめぐり、野党から核兵器の運搬が可能なのかと質問されたことに対し、「非核三原則を持った日本が運ぶことはありえない」と強調し、追及する野党を批判しました。
 「非核三原則を持った日本が、アメリカのために核弾頭を運んであげるなんてことは、ありえないことぐらい日本人の常識。ありえない無意味な議論をして、不安をかきたてるのはやめてもらいたいなあと、私は思っています」(自民党 高村正彦副総裁) 
  安全保障関連法案を審議する参議院の特別委員会で、中谷防衛大臣は、民主党議員の「法案上、核兵器は運べるのか」という質問に対し、「排除する規定はな い」という認識を示すとともに、「非核三原則や条約があり、輸送は想定していない。要請があっても拒否する」と強調しました。 
 これに関連して、高村氏は、「非核三原則を持った日本が、アメリカのために、核弾頭を運ぶことがありえないのは日本人の常識で、無意味な議論をして、不安をかきたてるのは、やめてもらいたい」と述べ、民主党を批判しました。 
  また、高村氏は、安全保障関連法案をめぐって、総理補佐官が「法的安定性は関係ない」と発言したことや、若手議員が、法案に反対する大学生グループのデモ 活動について、「極端な利己的な考え」という意見を表明したことなどに対し、「頼むから、オウンゴールはやめてくれという感じだ」と苦言を呈しました。 (10日00:44)』

果たして実際の戦争になったら核兵器か核兵器でないか区別出来ますか。科学技術が進みコンパクトに軽量化されている核兵器に戦車砲からも大砲からも発射は出来ます。スーツケースにも入れれるそうでは有りませんか。核兵器を使えば相手側も報復措置を取り、核兵器を使います。机上空論の議論が又繰り返されます。軍事機密に拘わる核兵器に日本の自衛隊に運ばすよりもアメリカ軍の専門家が輸送するのでは有りませんか。

日本の原子力発電所は、ほとんど海岸線に有るので有事の際を搭載していない通常ミサイルを打ち込まれたり、テロリストに爆破されたら日本は全滅です。東京電力福島第一原子力発電所が爆発事故を起こしているので、後一つ大地震でも起きれば日本は壊滅です。原子力発電所の副産物プルトニュムで、原子爆弾を製造してももはや時代遅れです。日本の平和と安全は果たして護れますか。有事の際に国民が避難する戦前のような防空壕は愚か、核シェルターも有りません。国民は、ほとんど野垂れ死にです。政治屋や亡命し、一部金持ちもアメリカに避難して安全と思っているのかもしれません。日本は戦争に巻き困れないと言う平和神話です。原子力の安全神話も人間が考えたもので、神様が造られたものではないので、絶対安全などあり得ません。四季に恵まれたの緑豊かな美しい日本国土を破壊するのは国賊以外何者でも有りません。集団的自衛権行使よりも御先祖さま伝来の日本の国土の安全確保と緑豊かな美しい自然の継承と維持、大型台風が襲来する前に東京電力福島第一原子力発電所の完全事故処理に全力を上げるべきです。家を治められぬ者、国家を治められずでは有りませんか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月9日(日)のつぶやき

2015年08月10日 05時13分13秒 | 受験・学校・学問

旧日本海軍の潜水艦発見か 五島列島沖海底で多数の船影 海保が調査 goo.gl/MqjXPi


高1男子が焼身自殺=橋の上、近くに灯油入りボトル―新潟記事のタイトルを入力してください(必須) goo.gl/4W5naz


突然「ドーン、バリバリ」…停電でトイレ行けず goo.gl/THPnEl


クリント・イーストウッドの名言「戦争を美しく語るものを信用するな…」 goo.gl/A3pgbd


@tekina_osamu 大阪維新の新しい動きや発言事にもどしどしツィートして下さい。内容が、過去になってしまっています。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする