[内戦で父親を失ったアフガニスタン人男性ケイハン・アブドゥルさん(21)が隣国への避難生活など困難を乗り越えて、早稲田大の国際教養学部の入試に25日、見事合格。「夢が実現した」と喜びの声を上げた。病気などで父親らを失ったイラク人女性バン・アリさん(19)も受かった。2人が挑戦したのは、書類選考と面接によるアドミッション・オフィス入試で、9月に入学する予定。]
アフガニスタン1978年から1989年まで続いたアフガニスタン紛争は、 長年の戦争で多くの犠牲者を出しました。アフガニスタン紛争でで父親を失ったアフガニスタン人男性ケイハン・アブドゥルさんが隣国への避難生活など困難を乗り越えて、早稲田大学国際教養学部の入試に6月25日のアドミッション・オフィス入試に見事合格されておめでとう御座います。内戦で亡くなられたお父さんもお喜びと思います。早稲田大学の「学問の独立」は、「在野精神」「反骨の精神」と結び合います。早稲田大学の教旨『自主独立の精神を持つ近代的国民の養成を理想として、権力や時勢に左右されない、科学的な教育・研究を行ってきました。グローバリゼーションが進展する現代、豊かな 人間性を持った「地球市民の育成」と言い換えることができるでしょう。』と言う早稲田大学の 学の理念と早稲田スピリットを身に付けて下さい。9月から早稲田マンとして健康に注意されて頑張って下さい。御活躍と御健勝を心からお祈り申し上げます。戦争の無い平和な日本で、学校でいじめによる自殺や集団暴力事件が起こっているのは本当に残念なことだと思います。御自分の戦争体験と非難生活も語り、生活と命、教育の本当の大切さを日本の早稲田大学の学生に語り、平和の貴い語りべ、伝道者になって下さい。アフガニスタンと日本の虹の架け橋になって皆さんの為に頑張って下さい。
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アフガニスタン紛争(1978年-1989年)(アフガニスタンふんそう1978ねんから1989ねん)では、アフガニスタンで断続的に発生している紛争のうち、1978年に成立したアフガニスタン人民民主党政権に対するムジャ-ヒディ-ンと呼ばれる武装勢力の蜂起から、1979年にソビエト連邦が軍事介入を行い、1989年に撤退するまでの期間を扱う。
ソ連・アフガン戦争と呼んだ場合、アフガニスタンの反政府組織や義勇兵とソ連軍の間で発生した戦闘を指す。ソ連軍のアフガニスタン国内の戦闘は1979年の出兵から1989年の完全撤収まで約10年に及んだ。
概要
1978年にアフガニスタンでは、共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党による政権が成立したが、これに対抗する武装勢力蜂起が、春頃からすでに始まっていた。ほぼ全土が抵抗運動の支配下に落ちたため、人民民主党政権はソビエト連邦に軍事介入を要請した。ソ連軍は1979年12月24日に軍事介入した。ソ連国家保安委員会 (KGB)は政体混乱の収容能力が無いとみたハーフィズッラー・アミーン大統領を殺害し、バーブラーク・カールマルを新たな大統領とし、アミ-ン政権に対立していた人民民主党内の多数派による政権が樹立された。この事は大きな事件として広く知られることになった。
共産主義政権とソビエト軍に対してムジャ-ヒディ-ンと呼ばれた抵抗運動の兵士たちが戦った。また米国中央情報局(CIA)はムジャ-ヒディ-ンの支援に総額21億ドルを費やした。これらの資金は陸上からの支援ル-トを握っていたパキスタン経由で行われ、パキスタンが同国国内に影響力を保持するきっかけとなった。また、ムジャ-ヒディ-ンには20以上のイスラム諸国から来た20万人の義勇兵が含まれていた。サウジアラビアの駐アフガニスタン公式代表となったウサーマ・ビン=ラーディンもそれに加わった一人である。ビン・ラ-ディンはこの後のアフガニスタンで反米思想とイスラム原理主義運動に傾倒し、後ろ盾であったアメリカに対してアメリカ同時多発テロを行うことになる。
多くの人は、この戦争は主権国家への正当な理由のない侵略行為だと見なしている。たとえば1982年11月29日の国連総会でソ連軍はアフガニスタンから撤退すべきだとする国連決議 37/37 が採択されている。しかし、ソ連を支持した人もおり、この戦争は貧しい同盟国を救助しに行った行為、あるいはイスラム原理主義のテロリズムを封じ込める為の攻撃としている。
最終的にソ連軍は1988年5月15日から1989年2月2日の間にアフガニスタンから撤退した。ソ連は全ての軍隊は1989年2月15日にアフガニスタンから退去したと公式に発表した。
さらにソ連撤退後もアフガニスタンに平和の日々は訪れず、ムジャ-ヒディ-ンの内部抗争、タリバンの台頭、タリバンに対する米国および有志連合諸国、アフガニスタン・イスラム共和国政府との戦闘など戦火は続くことになる。
前史 1919年の独立以降、アフガニスタンは王国であり、1933年以降はザーヒル・シャーが国王として統治していた。しかし、アフガニスタンは部族社会であり、地方の権力は部族の長が握っており、政府の権力は十分に浸透していなかった。また国王も部族会議のロヤ・ジルガによって推戴されていた。
ザーヒル・シャーは従兄弟のムハンマド・ダーウードを首相として起用したが、ダーウードの急進的な改革に反発が高まり、ザーヒル・シャーはダーウードを解任した。1973年、ダーウードはザーヒル・シャーが病気療養のためにイタリアに赴いた隙を狙って革命を起こし、アフガニスタン共和国を成立させた。
しかし1978年、ダーウードの強権的な政策に反発した共産主義政党アフガニスタン人民民主党のクーデターによってダーウードは暗殺された。アフガニスタン民主共和国'(DRA)の成立が宣言され、人民民主党の書記長ヌール・ムハンマド・タラキーが大統領に就任した。しかし、1979年には副首相であったハーフィズッラー・アミーンが再度クーデターを起こし、新たな大統領に就任した。
アミーンは当初融和的な政策をとったが、後に宗教指導者に対して弾圧を加えるようになった。このためアミーンに対するジハードが宣言され、全土でムジャーヒディーンが蜂起した。人民民主党政権はアフガニスタン軍に対する大規模な粛清を行っていたため、鎮圧する能力を持たなかった。アミーンはアフガニスタン軍による収拾が困難であることを悟り、ソ連軍の介入を要請した。
ソ連侵攻の要因
ソビエト連邦政府はアフガニスタンに軍事介入することについては当初、国際関係上の影響を考慮して非常に慎重であった。それにも関わらず行動を起こした動機については様々な政治的な要因がある。
大きな要因として、まず当時アフガニスタン大統領であったアミ-ンは独裁的な政治を行って、独自の外交政策を展開したことが挙げられる。米国中央情報局(CIA)と関わり、共産主義では否定されるはずの宗教聖職者との関係を強化した。これはソ連政府にはアフガニスタンの西側への転向の兆候と見られることとなった。アフガニスタンが転向することにより、ソ連の中央アジアにおける勢力圏を米国とイスラム主義勢力から防衛し、共産圏諸国へのソ連の国家的威信を維持する必要性が生じた。このことにより、ソ連政府は短期間で決着する軍事作戦を策定し、被害を最小限にとどめながらもアミ-ン政権を崩壊させることを狙って実行に移した。
また米国の軍事支援の影響もあった。当時の米国政府はパキスタンを経由して非軍事的物資と活動資金をムジャ-ヒディ-ンに提供していた。しかしこれら支援は秘密裏に進めるように努めており、ソ連との対立姿勢を明確にすることは当時進行していた米ソデタントの動きからも不利益と判断された。ソ連政府は武装勢力の台頭やイスラム国家建国の動きに対して強い警戒感を持っており、これらの武力化の恐れがある政治的な動きを制御する必要性に直面していた。
もう一つの要因としてイスラム原理主義の動きから発生したイランでのイラン革命が挙げられる。革命でモハンマド・レザー・パフラヴィー国王政府が倒され、ルーホッラー・ホメイニーを中心とする新政府が樹立された。このことはソ連にとって脅威であった。なぜならアフガニスタンでイスラム原理主義の革命が起こればソビエト連邦にも飛び火する危険性があったからである。アフガニスタンではイスラム原理主義の声も上がっており、革命後のイランには、北のソ連や東のアフガニスタンに革命を拡大するための宗教的、政治的及び経済的な動機が十分にあった。これらの意見は、当時のソ連の指導者レオニード・ブレジネフが、ソ連は(おそらく連邦内の共和国を含め)危険にさらされている同盟国を救援する権利を持つと宣言した公文書「ブレジネフ政策」によって裏付けられている。その後勃発したイラン・イラク戦争において、最も強力にイラクを援助したのもソ連であった。
早稲田大学ホームページより引用
- 早稲田大学の教旨
早稲田大学は学問の独立を全うし 学問の活用を効し
模範国民を造就するを以て建学の本旨と為す
早稲田大学は学問の独立を本旨と為すを以て
之が自由討究を主とし
常に独創の研鑽に力め以て
世界の学問に裨補せん事を期す
早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て
学理を学理として研究すると共に
之を実際に応用するの道を講し以て
時世の進運に資せん事を期す
早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て
個性を尊重し 身家を発達し 国家社会を利済し
併せて広く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す
もちろん、近代国家をめざす日本にとって、学問は現実に活かしうるものであること、日本の近代化に貢献するものであることが求められました。 つまり「学問の活用」です。安易な実用主義ではなく「進取の精神」として、早稲田大学の大きな柱の一つになりました。
庶民の教育を主眼として創設された早稲田大学。その3つめの建学の理念が 「模範国民の造就」です。グローバリゼーションが進展する現代、豊かな 人間性を持った「地球市民の育成」と言い換えることができるでしょう。 建学の理念とそこから生まれ受け継がれてきた早稲田スピリットは、私たちの財産。早稲田人がひとしく身につける校風です。
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