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『水俣病(みなまたびょう)は、チッソが海に流した廃液により惹き起こされた公害病である。 世界的にも「ミナマタ」の名で知られ、水銀汚染による公害病の恐ろしさを世に知らしめた。なお、舞台となった水俣湾は環境庁の調査によって安全が確認され、現在では普通に漁が行われている。
<script type="text/javascript"></script>概説
環境汚染による食物連鎖によりひきおこされた人類史上最初の病気であり、「公害の原点」といわれる。(2009年9月4日朝日新聞)
1956年に熊本県水俣市で発生が確認されたことがこの病名の由来であり、英語では「Minamata disease」と呼ばれる。この後、新潟県下越地方の阿賀野川流域で昭和電工が起こした同様の公害病の病名も水俣病であることから、これを区別するために前者を熊本水俣病、後者を第二水俣病または新潟水俣病(にいがたみなまたびょう)と呼称する。ただし、単に「水俣病」と言われる場合には前者を指す。水俣病、第二水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくは四大公害病とされ、日本における高度経済成長の影の面となった。
原因物質の名称
原因物質は容易に確定されなかった。1958年7月時点では、熊本大学医学部研究班は原因物質としてマンガン、セレン、タリウム等を疑っていた。当時、水銀は疑われておらず、また前処理段階の加熱で蒸発しており検出は不可能であった。更に、有機水銀を正確に分析し物質中の含有量を測定する技術は存在していなかった。しかし、翌年熊本大学水俣病研究班は、原因物質は有機水銀だという発表を行った。これは、排水口周辺の海底に堆積するヘドロや魚介類から水銀が検出されたことによる。公式見解として、'メチル水銀化合物と断定したのは、1968年9月26日であった。 これは、水銀中毒であることは確かだが、当時、数ある有機水銀のうちのメチル水銀が原因であるという確証が得られなかったことに起因する。この物質がメチル水銀であったことはすぐに判明したものの、初期の曖昧な内容が東大医学部などの反論を招いた。そしてそれに対する再反論作成の必要に迫られるなどして原因特定の遅れを招くことになった。ただし当時の文献や、それを引用した文献では、原因物質は有機水銀と表記されていることがある。
水俣病発生地域
日本国内
水俣病の名を付与されているものは、水俣市周辺(八代海沿岸)、新潟県阿賀野川流域。
日本国外
1970年代前後に中国の吉林省から黒竜江省にかけての松花江流域で、メチル水銀および無機水銀による土壌汚染が明らかになった。1990年代になってアマゾン川流域でも水銀による住民の健康被害が確認された。中国のものは、吉林省吉林市にある化学工場の、チッソ水俣工場と同様の工程が原因。このほか、五大湖に面するカナダオンタリオ州グラッシイナロウズ、ホワイトドッグの地区などでも有機水銀中毒が報告されている。フィリピンミンダナオ島、アマゾン川流域などの金鉱山下流の健康被害は金採鉱で利用した金属水銀が環境中に放出され、一部は有機水銀に変化し魚介類にも蓄積されていることが明らかになっている。
臨床所見
おもな症状
水俣病はメチル水銀による中毒性中枢神経疾患であり、その主要な症状としては、四肢末端優位の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、聴力障害、平衡機能障害、言語障害、振戦(手足の震え)等がある。患者には重症例から軽症例まで多様な形態が見られ、症状が重篤なときは、狂騒状態から意識不明をきたしたり、さらには死亡したりする場合もある。一方、比較的軽症の場合には、頭痛、疲労感、味覚・嗅覚の異常、耳鳴りなども見られる。
メチル水銀で汚染されていた時期にその海域・流域で捕獲された魚介類をある程度の頻度で摂食していた場合は、上記症状があればメチル水銀の影響の可能性が考えられる。典型的な水俣病の重症例では、まず口のまわりや手足がしびれ、やがて言語障害、歩行障害、求心性視野狭窄、難聴などの症状が現れ、それが徐々に悪化して歩行困難などに至ることが多い。これらは、メチル水銀により脳・神経細胞が破壊された結果であるが、血管、臓器、その他組織等にも作用してその機能に影響を及ぼす可能性も指摘されている。また、胎盤を通じて胎児の段階でメチル水銀に侵された胎児性水俣病も存在する。
上記のうち、いくつかの症状が同時に現れるものもあるが、軽度の場合には、臨床症状だけでほかの病気と識別診断するのは一般に困難である。このような様々な症状の程度は、一般にメチル水銀の曝露量に依存すると考えられるが、メチル水銀は既に体内に残留していないため、過去にさかのぼって曝露量を推定することは困難である。発症後急激に症状が悪化し、激しい痙攣や神経症状を呈した末に死亡する劇症型は、高濃度汚染時期に大量のメチル水銀を摂取し続けたものに見られる。この臨床症状は典型的なメチル水銀中毒であるハンター・ラッセル症候群(有機水銀を使用する労働者に見られた有機水銀中毒症)とよく一致し、これが水俣病原因物質究明の決め手となった。劇症型には至らないレベルのメチル水銀に一定期間曝露した場合には、軽度の水俣病や、慢性型の水俣病を発症する可能性がある。
一方、長らくの間、ハンター・ラッセル症候群という水俣病患者中最も重篤な患者、いわば「頂点」に水俣病像を限定してしまい、その「中腹」「すそ野」である慢性型や軽症例を見逃す結果を招いてしまったとの批判がある。人体では、メチル水銀自体は比較的排泄されやすい化学物質の一つであるが、中枢神経系などに入り込みやすく、胎盤を通過しやすいという化学的な性質を有しており、その毒性作用は神経細胞に生じた障害によるものである。いったん生じた脳・神経細胞の障害の多くは不可逆的であり、完全な回復は今のところ望めないが、リハビリによりある程度症状が回復した例は多数存在する。一方で、若い頃に健康であった者が、加齢にともなう体力低下などにより水俣病が顕在化する場合も考えられる。
重症例はもちろん、軽症であっても、感覚障害のため日常生活に様々な支障が出てしまう。例えば、細かい作業が出来ず、あるいは作業のスピードが落ちる。怪我をしても気付かず、傷口が広がったり菌が侵入する原因となる。こうしたことから、「危なくて雇えない」などと言われ、職を失ったとする証言は判決文や出版物中に複数存在する。 水俣病公式発見前後、劇症型の激しい症状は、「奇病」「伝染病」などといった差別の対象となった。こうした差別のため、劇症型以外の患者が名乗り出にくい雰囲気が生まれ、熊本大学研究班に送られてくる症例は劇症患者ないしそれに近いものだけとなり、ますます水俣病像 = ハンター・ラッセル症候群という固定観念が強くなってしまった。
原因
水俣病はメチル水銀による中毒性の神経系疾患である。メチル水銀中毒のうち、環境汚染の関与が認められるものをとくに水俣病と呼ぶとされ、環境汚染によってメチル水銀が魚介類等に蓄積し、それを摂取することによって発病したものを指す。なお、有機水銀が合成された理論的メカニズムは、今なお完全に明らかになっていない(これは、製造工程の設計時点では水俣病の発生を事前に回避することが難しかったことを示している)。
水俣病の発見と裁判
原因究明への動き
水俣湾とチッソ水俣工場の位置関係。1932年から1958年まで、水俣工場から排水路を経由して百間港に廃水が流された。その後は、1968年に水俣工場でのアセトアルデヒド生産が停止されるまで、排出先が水俣川河口に変更された。
日本で水俣病が集団発生した例は過去に2回ある。そのうちの一つは、新日本窒素肥料(現在のチッソ)水俣工場が、アセトアルデヒドの生産に触媒として使用した無機水銀(硫酸水銀)に由来するメチル水銀である。アセトアルデヒドは、アセチレンを希硫酸溶液に吹き込み、触媒下で水と反応させることにより生産される。工場は触媒の反応過程で副生されたアルキル水銀化合物(主として塩化メチル水銀)を排水とし、特に1950年代から60年代にかけて水俣湾(八代海)にほぼ未処理のまま多量に廃棄した。そのため、魚にメチル水銀の生体濃縮が起こり、これを日常的に多量に摂取した沿岸部住民等への被害が発生した。1960年には新潟県阿賀野川流域でも同様の患者の発生が確認され、新潟水俣病と呼ばれる。これは、阿賀野川上流の昭和電工鹿瀬工場が廃棄したメチル水銀による。 メチル水銀中毒が世界ではじめて報告されたのは1940年のイギリスである。このときはアルキル水銀の農薬工場における、従業員の中毒例であった。ハンターとラッセルによって、運動失調、構音障害、求心性視野狭窄がメチル水銀中毒の3つの主要な臨床症状とされたため、これをハンター・ラッセル症候群と呼ぶ。
1959年7月に有機水銀説が熊本大学や厚生省食品衛生調査会から出されると、チッソは「工場で使用しているのは無機水銀であり有機水銀と工場は無関係」と主張し、さらに化学工業界をあげて有機水銀説を攻撃した。チッソ工場の反応器の環境を再現することで、無機水銀がメチル水銀に変換されることが実験的(理論的ではないことに注意)に証明されたのは1967年のことであったが、排水と水俣病との因果関係が証明されない限り工場に責任はないとする考えかたは、結果として大量の被害者を生みだし、地域社会はもとより、補償の増大など企業側にとっても重大な損害を生むもとになった。
原因の特定が困難となった要因としては次の事実もある。それは、「水俣病の科学」でも指摘されていることであるが、チッソ水俣工場と同じ製法でアセトアルデヒドを製造していた工場は国内に7カ所、海外に20ヵ所以上あり、水銀を未処理で排出していた場所も他に存在した。しかし、これほどの被害をひき起したのは水俣のみであり、かつ終戦後になってからである。この事実が有機水銀起源説への化学工業会の猛反発を招き、発生メカニズムの特定をとことんまで遅らせることとなった。
チッソ水俣工場では、第二次世界大戦前からアセトアルデヒドの生産を行っていたにもかかわらず、なぜ1950年過ぎから有機水銀中毒が発生したのかは、長期にわたってその原因が不明とされてきた。現在でも決定的な理論はまだ出現していない。だが、生産量の増大ならびにチッソが1951年に行った生産方法の一部(助触媒)変更による水銀触媒のアルキル生成物の上昇が患者の大量発生に関係したと考えられている。生産工程の変更は、アセトアルデヒド合成反応器内の硫酸水銀触媒の活性維持のために助触媒として使用していた二酸化マンガンを硫化第二鉄に変更(近年の研究で二酸化マンガンが有機水銀の中間体の生成を抑える事が明らかになりつつある)したために、塩化メチル水銀などのアルキル水銀を多く発生させることとなり、それが排水として流されたと考えられている。また、チッソ水俣工場がアセトアルデヒド生産を開始したのは1932年からで、年間生産量は1954年までは209 - 9,159トンであったが、1950年代中頃から増産が続き、1956年には前年度の約1.5倍の15,919トンとなり、1960年には45,244トンで最高となった。また、当時の生産設備は老朽化が進んでいたが、経費削減で更新を怠ったため、廃液の流出が年々加速度的に増えつつあったことが当時の薬剤購入量から示されている。[4]このように、この時期の生産量の急激な増大や、老朽設備運転による廃液量の増加に代表される利益至上主義による化学プラントプロセス管理の無視、助触媒の変更等が組み合わさった結果、大量のメチル水銀の生成につながったと考えられている。最近の研究によると、工場から海域へ廃棄されたメチル水銀の量は0.6 - 6トンに達したと推定されている。
なお、自然の海域には無機水銀をメチル水銀に変換する細菌が存在するが、それらが生成するメチル水銀はごく微量であると熊本県は主張している(実際には、誰も研究しておらず、現在水俣湾の有機水銀濃度が増えたというデータは存在しないだけである)。「水俣病発生当時、工場はメチル水銀を流していなかった」、「自然の海域で無機水銀から生成した有機水銀が水俣病の原因となった」などの主張に根拠はない。
そもそもの遠因として挙げられるのは、当時世界中で採用されていたアセチレン法アセトアルデヒド工法である。これはあくまで「経験的」に効率よい水銀の安定回収ができる工法であり、有機水銀の中間体が出来ることは誰も気づかなかったのである。
発見に関わる経過
既に1942年頃から、水俣病らしき症例が見られたとされる。1952年頃には水俣湾周辺の漁村地区を中心に、猫・カラスなどの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった(このころは「猫踊り病」と呼ばれていた)。
- 1946年:日本窒素がアセトアルデヒド,酢酸工場の排水を無処理で水俣湾へ排出。
- 1949年頃:水俣湾でタイ,エビ,イワシ,タコなどが獲れなくなる。
- 1952年:熊本県水俣で最も早期の認定胎児性患者が出生。ただし認定は20年後。
- 1953年:熊本県水俣湾で魚が浮上し,ネコの狂死が相次ぐ。以後,急増。
- 1954年:8月1日付熊本日日新聞で、ネコの狂死を初報道。
水俣病患者で最古の症例とされるのは、1953年当時5歳11ヶ月だった女児が発症した例であるが、患者発生が顕在化したのは1956年に入ってからである。新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、1956年5月1日、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。この日が水俣病公式発見の日とされる。