山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

東京に出てみたけれど

2024-09-14 21:06:46 | アート・文化

 1936年に公開された小津安二郎監督の映画「一人息子」を観る。満州国建国(1932)、国際連盟脱退(1933)という戦時背景は画面には出てこないが、製糸工場の女工であるシングルマザーの母・おつね(飯田蝶子)は生活苦を打開するには一人息子(良助・日守新一)だけが希望の星だった。

 担任教師の大久保(笠智衆)に「これからの時代は学問を身につけなければ、田舎でくすぶることになる」と言われて、おつねも一大決心をして良助を東京に出し、大学まで進学させる。そのため、結果的に息子の進学を応援し、東京で働くようになった息子を訪問するが。

 

 この辺りは、明治生まれのオラの親父の長男に期待する生き方と重なる。それに応えてオラの長男はエリートコースを邁進するが結果は赤貧の苦汁をなめてきた親父の期待を裏切ることになる。それはこの映画以上の残酷で運命のはかなさを末っ子のオラに見せつけることになる。それはまだまだ語れないが、監督がいわんとしていることと重なる。

   担任だった大久保先生も東京に行ったがわびしいとんかつ屋を、良助も安月給の夜学の教師となった。母のおつねも訪問したときの息子夫婦の親孝行ぶりには感動するが、生活の苦しい現実を知ることとなる。

 

 要するに、webの「note.com」(画像の引用のそこから)によれば、様々な作品を通して監督は「敗者の現実」を描いてきたのではないだろうか?という指摘に大いに共感する。 

 本作の冒頭には、『人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている。』という芥川龍之介の「侏儒の言葉」を画面に引用していたが、その現実を映像の最後まで貫いていて希望をシャットアウトしている暗い作品になっている。そこに、33歳だった監督の早い「無常観」が直截に出ている気がする。それは戦争に従軍しても、戦後になってもその姿勢は変わっていない。

 

 立身出世して周りから評価されても、また安定した裕福な家庭をもてても、それが直ちに幸せを獲得しているとは思えない、というのがオラが見てきた人生の実感だ。その意味でも、この映画はそれをまざまざと見せてくれる。フィルム状態は悪く、画面の雑な飛躍が気になるが、戦後の小津映画のパターンはすでに出来上がっている。

 生活が苦しくとも、古典落語に出てくる長屋の明るさや人間模様の寛容さが素晴らしい、と思うし、さらにそこに、自然との苦くも共生や感謝が見つかれば生きる豊かさを実感できる。そういう根拠地を自分の足元に構築したいものだ。これからも、小津監督の無常感からそれをキャッチしたい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小津安二郎の様式美そのものの風景

2024-09-07 09:09:20 | アート・文化

  大雨が続いた台風だった。土砂崩れの情報が多かったので念のため寝る場所を山側から居間に変更した。このところ、ムカデの親子がしばしば出没するので簡易テントの中での家内キャンプだ。雨が多いとDVDの映画を見るチャンスでもある。1951年公開の小津安二郎監督の「麦秋」を観る。キネマ旬報ベストワンを誇った作品だ。監督は「人生の輪廻・無常を描きたかった」と言う。いつもの映像パターンからそれをいかに表現できるかが見どころだ。 (画像は松竹webから)

 

 

 小津安二郎の基本構図は、日本的な襖・障子・柱・窓の真ん中にちゃぶ台があり、箸でごはんやおかずを食べ、何気ない会話が交わされ、それをローアングルのカメラが追っていくというものだ。本作品もその通りのパターンだった。そして、今回はおしゃれな喫茶店が出てくるのがポイントの一つだ。小津作品には絵画がそれとなく出てくるが、今回は大胆でシュールな壁画が印象的であるのと、登場人物の和洋のファッションが見どころだ。

   

 海外のデザイナーが服装・場所・小物などのこれら和洋の組み合わせから、日本の美の緩やかさに注目しているという。原節子や三宅邦子らのファッションは当時としてはかなりニューモードな革新性があったと思われる。

 父と娘のとの会話で、康一・笠智衆「終戦後、女がエチケットを悪用してますます図々しくなってきつつあるあることは確かだね」、紀子・原節子「そんなことはない。これでやっとフリーになってきたの。今まで男が図々しすぎたのよ」という場面があったが、そこに戦後まもなくの当時を切り取って見せているのもさりげない。(上の2枚の画像は、「カイエ・デ・モード」から)

  

 また原節子のご飯を食べる所作の大胆な食べっぷりにびっくりしたが、ありふれた日常生活の中に違うリズムをひょいと投げ入れるのが監督の特異性と言えるかもしれない。オラが若い時は小津の映画を見てもいつも寝てしまっていたが、今見るとその斬新さというか熟成を感じ入る。さらに、子どものやんちゃな場面を挿入して淡々としがちな日常の画面にユーモアを撮り入れることも忘れない。

 監督の色紙には何気ない湯呑の絵に「車戸の重き厨や朧月」という俳句を発見したが、そんなところにも監督のまなざしがある。

 

  1937年に徴兵された小津は、中国戦線で毒ガス部隊にいて上海・南京などの主要都市の侵略にかかわり軍曹にも昇進。その後、軍部映画班員としてシンガポールに従軍、1946年帰還。そのあたりの戦場の阿鼻叫喚は黙して全く語らないが、「麦秋」では、次男省二の戦死という形でヒロインの紀子・原節子の結婚を決める背景になっている。戦火で見たであろう経験は作品の中では具体的に描かれず、家族という狭い小宇宙に安堵と陥穽と無常を刻んでいる。

 終章には、家族がバラバラになっていくなかでの、村の花嫁行列や麦畑を描写することで、日常生活の喜怒哀楽の中に人生の亀裂やはかなさを静かに諦観する監督のまなざしがローアングルでとらえている。東山千恵子の凛とした表情と悲哀とが作品の中での存在感を増している。原節子の美しい笑顔と東山千恵子の安定した重量感が対照的だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エアコンなくても涼を呼んだかつての叡智

2024-09-04 22:53:34 | アート・文化

 東団扇(アズマウチワ)とは、 江戸特産のうちわで、初めは割り竹に白紙を張っただけの無地のものをカラーなどの絵にした江戸うちわシリーズ。それを役者絵にしてしまう江戸の絵師・版元が斬新だ。モデルは、両国橋で夕涼みする歌舞伎役者・4代目市村家橘(カキツ)。画像の浮世絵は慶応3年発行、慶応4年(1868/8)に市村座で5代目尾上菊五郎を襲名したが、翌月明治維新で明治に。幕末から明治に活躍したいなせな役者だ。四角い「版元」印と丸い許可印の「改印」は、黒塗りされているかのように絵師のサインの隣にあるが解読できない。

   

   藍染めの浴衣は、「橘屋」の家紋をアレンジした「橘鶴(タチバナツル)」なので、ファンは当該の役者は市村家橘であることがわかる。背景には、緑の「麻の葉模様」と「レンガ柄」を配置。「八百屋お七」を扮した岩井半四郎が女形の役でこの「麻の葉模様」の衣装を着たことから江戸で爆発的に大流行。とくに、麻の葉模様を白玉で描いた赤地の衣服は若い女性はもちろん子どもや男性にも使われた。

 

 画像左上には、軒から吊るした風鈴が涼を呼ぶ。その「しのぶ玉」は苔と土とで球を作り周りにシダ植物の「ノキシノブ」で形を整えている。このノキシノブは、「水がなくとも耐え忍ぶ」という江戸っ子らしい粋が込められている。この「釣りしのぶ」の形も「橘鶴」を考慮しているらしい。しかもその短冊には、「たちばなの 薫るもうれし 橋すずみ」との家橘が詠んだ句が挿入されている。当時は橘が身近にあった植物だったようだ。これでもかの「橘づくし」の役者絵は家橘のPRちらし・プロマイドのようなものだ。

  

 同じような表現パターンがいくつかあるようだが、なかなか資料が出てこない。左手に楊枝を持つこの役者は、幕末から明治にかけて人気のあった4代目「中村芝翫(シカン)」であることが短冊からわかるが、崩し字がなかなか解読できない。歌舞伎役者の俳諧はけっこう盛んだったらしいが、その研究もまだまだ発展途上のように思える。背景の模様・釣りしのぶ・風鈴の形がそれぞれ微妙に違うのが面白い。きっと、それぞれに意味があるのだろうが、オラの能力を超えている。

    これらの役者絵の絵師は、「豊原国周(クニチカ)」で、同時代の月岡芳年・小林清親と並ぶ「明治浮世絵の三傑」と言われ、最後の浮世絵絵師である。しかし、生涯で妻を40人余りも変え、転居の回数も本人曰く117回といい、さらに「宵越しの金は持たない」とばかりに散財したため極貧の暮らしだった。船越安信氏の『豊原国周論考』は海外の資料をも駆使した優れたweb上での労作があり、その情熱に敬意を表したい。

 なお、絵師のサインでは、「国周画」は30歳まで、「国周筆」は30歳から、「豊原国周筆」は36歳からということだ。したがって、当該の家橘の役者絵は30歳代の作品ということになる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最高の愛を込めて葬(オク)るこもごもの事情

2024-08-10 21:22:28 | アート・文化

 第40回日本アカデミー賞(2017年)を受賞した映画のDVD「湯を沸かすほどの熱い愛」(2016年公開)を見る。出演した宮沢りえが最優秀主演女優賞、杉咲花が最優秀助演女優賞・新人俳優賞、監督の中野量太が優秀作品賞・優秀監督賞・優秀脚本賞を獲得するなど、日本アカデミー賞を総なめにする。なるほどそれだけの展開がサスペンスではないのに家族の事情が次々剥がされていく。

 

 主演の母・双葉(宮沢りえ)は、余命二カ月を宣告される。そこで、銭湯を経営しながらも蒸発した夫(オダギリジョー)を連れ戻し、銭湯を再開させる。そして、学校でいじめの対象だった娘(杉咲花)を自立させ、とある人に会わせる行動に出る、というストーリーだ。

 

 無責任極まる夫を飄々と演じる夫・オダギリジョーの軽さの中に優しさを感じさせる演出も素晴らしい。その無責任さを追及せず自立を促す妻・宮沢りえの懐の深さ、病床での表情も見事だった。母の死をテーマにしながら明るく前向きに観る者の心を揺さぶる監督の手腕、ストーリーのあっと言わせる意外性が涙と笑いとを同居させる。

 

 劇中の中盤で、娘がなにげなく手話を通訳するがその意味が後半で大きな意味を持つことがわかってくる。また、夫を探してくれたわけありの子連れ探偵(駿河太郎)のかかわりとか、ヒッチハイクの青年(松坂桃李)などの登場は、見終わったときに碁石のようにその意味が主題を深めていく。

   

 登場人物の背景がことごとく剥がされていく。そこに様々な哀しみや生きざまがあり、そこに寄り添う母の目線が注がれる。そこに飄々とした笑いを加味した監督の豊かな余白がある。病院前の「ピラミッド」はその最たる表現だった。そこに、涙と笑いを増幅させて余りある。血のつながりが薄い家族が「熱い愛」によって自立と絆を獲得していく再生物語でもある。

 

 そうして、それらを包み込むベースが銭湯だった。母の葬式が終わってからみんなと一緒に湯に浸かったときの表情、煙突から母の好きな色・赤い煙が出ていくとか、ここでは書けないような業界驚愕のひねりが仕組まれている。総じて、母が遺した「熱い愛」をしっかり受け止めた家族の「熱い愛」が止揚される。生きていく辛さや失速のさなか、その現実を超える「熱い愛」をどこで、だれと醸成していくか、そんな視座をさわやかに用意した珠玉の作品だった。混迷するばかりの世界の中でこの「熱い愛」を身近なところから沸かしていかなければと思った次第だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意地悪婆さんが母になったとき

2024-07-27 22:14:59 | アート・文化

 巨匠・小津安二郎が戦後第一作を撮ったのが、「長屋紳士録」である。1947年(昭和22年)のことだった。戦災孤児らしき坊やの面倒を押し付けられた未亡人のおたね婆さん(飯田蝶子)が主人公だ。寝小便を繰り返し不愛想な坊やに手こずり、坊やをなんとか引き離そうとおたねさんは悪態をついたり邪険にしたり捨て去ろうとしたりするが失敗する。

 

 寝小便をして責任を感じた坊やがいなくなる。すると、おたね婆さんははその行方をくまなく捜しまわるようになる。おたねさんの坊やに対する愛情が深まっていく、というような変化がこの映画の見どころだ。そのうちに、同じ長屋に住む占い師(笠智衆)が坊やを見つけて連れ戻すことができたものの、坊やを前々から探していた父親(小沢栄太郎)がやってきて坊やと再会する。

 

 言うまでもなく、坊やと別れるおたねさんの心情を監督はしっかり抽出して涙を誘う。また、小津映画では中心的存在だった笠智衆は脇役に徹していていたが、町会の宴会で「のぞきからくり節」という口上を歌う場面も圧巻だ。昔は縁日や祭りなどで紙芝居のような大道芸として流行った口上だが、オラは記憶がない。どうやら、武男と浪子の悲恋の「不如帰(ホトトギス)」のあらすじを、のぞき絵を見せながら歌ったものだそうだ。小さい時から暗唱していた笠智衆の芸が特別に生かされたシーンだ。

 

 それ以上に、一週間近く坊やの面倒を見て考えさせられたとおたねさんは長屋の人と語る。敗戦で人より「自分ひとりさえよければいい」という風潮が蔓延している戦後を告発し、「イジイジしていて、のんびりしていないのはアタシたちだった」と自省する。

 

 戦地のシンガポールから帰還してまもない監督は、最後に上野界隈にたむろする戦災孤児を静かに映し出してフィナーレとしている。坊やは捨てられたタバコの吸い殻や釘を拾っていたようだが、そういえば、焼け跡派のオラの少年期も空襲で焼け落ちた釘などの鉄くずをよく拾ってきて、くずやさんに売り家計の足しとしていた。また、ガスがまだなかったから、近隣に落ちている木を拾い集めて薪にしていたのも思い出す。

 

 わが家は空襲で燃えたので親父がかき集めた資材で作った「バラック」が住み家だった。だから、雨が降ると雨漏りがひどく、隙間だらけの冬は寒くておねしょは高学年まで続いた。おねしょは人生の挫折の深みを早くに刻印してしまった。暮らしと子育てと戦争に追われた両親の波乱万丈の歩みを知ると、明治生まれの親は何のために生きてきたのかを考えさせられる。

 

 戦地を経験した小津監督は、声高に反戦や平和を訴えるのではなく、身近な家庭にこそいのちの重力がかかっていると見抜いたのかもしれない。だから、今回もローアングルから粗末な居間を映し出していた。古典落語に出てくるような口は悪いけど心優しい長屋の住人は、ほんとうは紳士なのだと監督は言いたいのだろうか。

 2012年、イギリスの映画誌「サイト&サウンド」は、世界の映画監督358人の投票の結果、『東京物語』を世界の名作の第1位に選んだ。単調に見えるその白黒映画をオラは居眠りしていたくらい鈍感だった。目立つ黒澤明とは一線を画する違いがある。反省を込めて、するめを噛むように小津監督の映像をゆるりと注視していきたいと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イワン雷帝がルーツなのかも??

2024-07-20 20:32:18 | アート・文化

    ロシアのウクライナ侵攻の蛮行ぶりは目に余るものがある。ロシア革命は世界史の中で一つの希望を提示したものだった。しかし、その実態とその後の歩みは旧態依然の過去ををひきずったままのように思えてならない。そこで、巨匠エイゼンシュタイン監督が描いた映画「イワン雷帝」をDVDで見ることにした。

  イワンが大貴族や聖職者の妨害をはねのけ、民衆の支持を得て国家の統一を完成させ、しかも領土を拡張した偉大な統治者として「第一部」を監督は完成させる。それは当時の権力者・スターリンを想起させる国策映画とも思われる。

  

   第1部は絶賛を浴び,スターリン賞を受賞。しかし、第2部については、監督・スターリン・ソビエト高官が出席した1947年2月の会議で、権力者の孤独、専制政治の悲劇をゆがめて描いたとして批判が出る。とくにスターリンは、雷帝の恐怖政治は当時国を強くするのに役立ち、国をばらばらにしようと画策する封建領主たちから国を守った進歩的な方策だったとし、なぜ残忍でなければならなかったのか説明しなければならない、と主張。それで第二部の上映はストップし、半分まで撮影された第3部は未完のまま監督は亡くなってしまう。

 

  イワン雷帝は実在の皇帝のイワン4世(1530-1584)だ。当時権力を持っていた大貴族を抑圧し、反対勢力に対して容赦ないテロや専制的支配を強制、その残虐・苛烈な性格のため市民達からも「雷帝」と恐れられた。また、自らの手で息子を殺害したという逸話は有名で、歴史画としてもモスクワの美術館に飾られている。さらには、親衛隊・秘密警察を組織して相手を抹殺したり、武装して領土を拡大したりして今日のロシア拡張の基礎となった。


 しかし、そうした雷帝の周辺は貴族たちの陰謀が渦巻いていたので、彼の猜疑心はますます深まるばかりだった。第一部の映画ではそうした貴族たちの表情が幾度となく描かれていた。その表情は歌舞伎や能に関心を持った監督の新境地ではないかとも評価されている。

 

 プーチン大統領は、16世紀の雷帝の後期に即位したピヨートル大帝を尊敬していることで有名だ。大帝は、17世紀、専制君主政治のツアーリズム体制を完成させた指導者だ。以前、プーチンの執務室にその肖像画を掲げていたというくらい大統領は崇敬していた。というのも、大帝は、21年にわたりスウェーデン等との戦争を開始・継続し、バルト海・カスピ海・黒海さらにはシベリア・アラスカなどの南下・東方領土の拡大をも成し遂げて、ロシアの西欧化を推進し絶対王政を確立させた。

その大国化路線は、エカチェリーナ女帝~アレクサンドル・ニコライ皇帝~スターリンへと事実上継承されていく。

 残念ながら、監督の第2部作品はDVDに収録されていなかったので見ることはできなかったが、第一部でも雷帝とその取り巻きとの猜疑心が良く表現されていた。アリの巣のような粗末な宮殿と豪華絢爛な服装・装飾品をまとった貴族や僧侶らとの対照的な描き方がみものだ。また、彼らの姿がおどろどろしい影となって登場する画面もエイゼンシュタイン効果だ。 

  

 「第一部」は、1944年に制作された白黒映画ではあったが、今見ても現代にも相通ずるものがある。エイゼンシュタインは、国家とアーティストとの狭間で苦悶して制作したであろうことが想像される。また、作品からは、現代ロシアが抱えているずっしりした課題が鮮明にあぶりだされていく。そのルーツはイワン雷帝にあり、とみたが…。この足かせを払拭するのは至難の業だ。国民ひとり一人がこじれたひもをじっくり戻して歴史を形成していくしかない。または、強権の独裁者ではなくもう一人のゴルバチョフの登場が必要となる。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 柱にからみついて怒髪天となる鳴神上人

2024-07-03 22:39:25 | アート・文化

 武者絵と言えば江戸後期に活躍した「歌川国芳」だ。この浮世絵は、歌舞伎十八番の「鳴神上人(ナルカミ)」が柱に絡んで怒りが収まらず「見得」を切る有名な場面だ。皇子誕生に貢献した高僧鳴神上人は、朝廷が約束した戒壇設立を反故(ホゴ)にされたため、法力で龍神を滝壺に封じてしまう。そのため、雨が降らず日照りが続く。

 それに対して、朝廷から送り込まれた「雲の絶間(タエマ)姫」は色仕掛けで上人を破戒させ、滝の注連縄を切ると封印が解け、龍神が出現し雨が降る。騙されたとわかった上人は髪を逆立て炎となって荒れ狂い、柱に絡みついて見えを切るという山場だ。

  

 最後は絶間姫を追って、花道を「飛び六法」で盛りあげるという筋書きだ。嘉永4年(1851)に市村座で上演、八代目市川團十郎が演じる鳴神上人は、前半は気高い有髪の僧形。気品、威厳、生真面目さが表現される。後半は、一変して荒事により、裏切られた男の怒りを「柱巻きの見得」をはじめ、荒々しく立ち回るという変化が見ものだ。

  

 今までにない発想と画力で江戸の人々を魅了した一勇斎国芳は、1818~1860年(文政元年~万延元年)の間に用いていた画号のようだ。「年玉印」は「年」の草書体をデザイン化した物で、歌川派の絵師であることを示す家紋のような印。歌川国貞がこの年玉印をしばしば使用した一方、国芳は国貞が「2代目歌川豊国」を名乗り出して以後、この年玉印の落款の使用を避けて、「芳」の字を崩した「芳桐印」を押すようになる。

芳桐印

 国芳は、国貞とは別路線を歩むことを明確にしていったが、広重が間に入って平和共存路線に移行していったらしい。歌川派の分裂が避けられた形だろうか。それにしても、この落款から、「年」の字を草書体に崩し、丸型から瓢箪型に埋め込んでいくなどとはなかなかわからない。しかし、こんな小さな落款から、浮世絵師の振る舞い・センス・ユーモア・反骨精神などが見て取れるのが面白い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実在したアーティスト「浜野矩隋」の人情噺

2024-06-22 23:44:07 | アート・文化

 相変わらず、五代目圓楽の人情噺に感動する。落語は、浜野矩隋(ノリユキ)という江戸時代中期に実在した装剣金工家<元文元年(1736年)- 天明7年(1769年)>の苦渋に満ちた物語である。彫刻の名人だった父親が亡くなった後、腕の劣る息子矩随が母親の「自分は犠牲になっても子どもを前面に押したて、その意気込みが子どもを発奮させる」という人情噺だ。  講談や落語家によっては、母親はのどを掻き切って子どもの自立を遂げようとする筋立てで、圓楽も母親の自害も導入したことがあったようだが、今回聞いた公演では当世事情を考慮してか、未遂に終わらせている。

  

 先日、NHKで柳家蝠丸(フクマル)がこの「浜野矩隋」を演じていた。物語は圓楽の流れに基本は沿っていて、わかりやすく歯切れも良い。ただし、最後のオチが表面的になっていたり、母親の迫力と臨場感に蝠丸の優しさが禍して物足りない。

 また、いつも注目していた志ん朝のユーチューブを聞いたが、やはり、テンポの良さと話術の勢いの魅力はあるが、父の志ん生の間の取り方や味には及ばない。

  

  矩隋(ノリユキ)を暖かく支援していた骨董屋・若狭屋甚兵衛は、なかなか技術が向上しない矩隋に向かって、「おためごかしの言い手はあれど、まこと実意の人はなし」という言葉を引用して、支援をストップするという。つまり、うわべはいかにも人のためを思っているような顔つきの「お為顔」や言葉・行為がありながら、本音は自分のことや利益・都合しか考えていないという意味で、矩隋の作品にはアーティストとしての精髄がこもっていないと指摘する。古典落語は知らない言葉や江戸世界を教えてくれる。

  

 スポンサーからも母親からも突き放された矩隋は、自分も死のうかと思い詰めるが一念発起して母親への形見となるような観音様を夜を徹して彫り上げる。それを母親に見せ、若狭屋に持っていく。それでやっと一流の実力を証明していき江戸で評判となる。

 笑いを取ることより人情噺を真摯に伝えるこの「浜野矩隋」は、6代目圓楽・志ん生・一之輔らもこれを挑戦しているが、苦戦しているように思われる。そんななか、五代目圓楽の「浜野矩隋」の話芸は群を抜いている。

  

 最後のオチは、五代目圓楽らしく、江戸の儒学者・坂静山(バンセイザン)の言葉、「怠らで行かば千里の果ても見ん 牛の歩みのよし遅くとも」を引用して、「怠けずに歩みつづければ、必ずや千里のように遠くまでも到達するであろう。たとえ牛のように歩みが遅くても」と、矩隋の生きざまをまとめる。

 そして、「寛政の年度に親子二代にわたって名人と言われた、浜野の一席でございます。」 の名調子で大団円。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オデッサは戦局を変えられるか

2024-06-15 22:49:56 | アート・文化

 なんと、半世紀ぶりに映画「戦艦ポチョムキン」のDVDを観た。1905年、ロシア革命の先陣を切ったと言われる歴史的な事件を題材とした白黒映画だ。細かい内容は忘れていたが、オデッサの広い階段に並列した兵隊が次々に民衆を射殺していく有名なシーンだけは忘れていなかった。

 1925年に公開されたセルゲイ・エイゼンシュタインが監督・脚本を担当、その映画作りの教科書と言われる表現と技法は今見ても確かに斬新であるのは間違いない。ソビエトのプロパガンダ映画の限界はあるにしても、その後の映画界に大きな影響を与えた。

   

 このDVDを貸してくれたブラボーさんは、「<腐った肉>が某スターシェフによってマルクス謹製のソースでマル共印のスープに調理されて百年後の新生ロシアを育てた?」「現時点で<戦艦ポチョムキン>は実効力を伴った正当でグローバルな共産主義のプロパガンダと評価してよいのか?」との疑問を踏まえての課題提出だった。それは当然、現在のロシア・ウクライナとの戦時体制の状態を考慮したものでもある。

  

 晩年のエイゼンシュタインは「イワン雷帝」で事実上のスターリン批判を始めたことで三部作が廃棄されて未完となってしまった。それで今回、前編である「イワン雷帝」のDVDも入手したみた。

 さて、エイゼンシュタインというと、「モンタージュ理論」による映画手法がよく取りざたされる。それはそれぞれ違うカットの映像をつなげることで効果を拡大することにある。「映画史上もっとも有名な6分間」と言われるオデッサの階段シーンでは、逃げ惑う人々・殺された子を抱き上げた母のアップ・破壊された建物のがれき・ロボットのような迫り来る兵隊たちなどが、ショスタコーヴィッチの音楽とともに、その場の臨場感と喧騒、人々の悲しみや怒り、狂気の全てが表現される。

 

 ついでに、 この映画には エイゼンシュテイン自身が神父役で出演しているのも見ものだ。死んだふりをして、目を開けたり閉じたりしている狡猾さをうまく演じている。また、「ポチョムキン」は、女帝エカチェリナ2世の寵臣でクリミアを併合したり、黒海艦隊を創設したり、露土戦争の総司令官を務めた軍人の名前である。

  

 その意味で、ロシアが実効支配している黒海・オデッサの地政学的な存在は、今後の希望を拓くことになるのかどうか、注目したいところでもある。どちらにせよ、ロシア帝国的な体質を温存したままではブラボーさんが危惧しているように、戦艦ポチョムキンの反乱の意味が表面的に終わってしまうことになる。

  

   現実の世界では、オデッサの階段どころか建物が破壊されつくし、衣食住の生存の基本を奪われ、2万人近くの子どもが拉致されているのがウクライナの今日だ。半世紀前の日本の大学だったら各大学でベトナム反戦ならぬウクライナ支援の学生運動が起きたに違いない。学生の牙はすっかり抜歯され、団塊の世代もすっかり企業戦士としてエネルギーを使い果たし、「青雲の志」は濃霧となった。

 戦後の財界人も政治家も社会貢献をする発想が欠落し、儲けと利権だけを得ることに汲々として、いわゆる今日の「政治と金」の構造を産み出してしまった。スマホやパソコンを使っていると結局はGAFA(Google/Amazon/Facebook/Apple)を始めとするアメリカ企業の戦略の餌食にされ、「楽天」の三木谷浩史社長が指摘したように「日本はアメリカの<IT植民地>になってしまう」壁をいつも実感してしまう。

 

 「オデッサの階段」は権力の非情さの象徴でもあるが、世界は現代版オデッサの階段を克服できるだろうか。また、日本では民衆や政財界人の大脳に刻印されてしまったアメリカへの従属意識・植民地化奴隷意識を除去するのは戦後80年近くなるというのにかなり困難だ。せめて、アニメやゲームで課題をそらし媚びるしか道はないのだろうか。

  

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸のファッションは役者絵が推進役

2024-05-20 23:12:52 | アート・文化

 前回の役者絵の左端は、女形の初代岩井紫若(シジャク、1804-1845、岩井半四郎/七代目)である。紫若は42歳で病没したが、娘役や若衆など美形の「紫若半四郎」と評判だった。その美しい派手な髪型は現代でも人気が衰えない「島田髷(マゲ)」。その髪型は、江戸後期に流行した「高島田髷」または「つぶし島田」のようだが、オラには髪のそれぞれの名称がぶつかりあって混乱してしまう。

 (イラストは「加納」webから)

 髷を二つ折りした所に「手絡(テガラ)」という「鹿の子絞り」のピンクの布で縛ってある。そのときに、縮緬状の折った紙を差し込んで髷を高くしている。天保の改革(1841-43)のぜいたく禁止令により布の縮緬の利用が止められたので、それにかわり和紙の縮緬紙が使用された。役者絵ではそれをアッピールしたように大きく描かれているのがたくましい。

 また、前髪と髷の間には花模様をあしらった櫛をしっかり描いている。そのうえさらに、「助六」が紫の鉢巻きをしていたのと同じものを紫若もしているが、その意味は分からない。この助六の鉢巻は、病鉢巻とは逆の鉢巻を巻いているので、これは放蕩無頼、異端の傾き者の粋を表現しているパワーの証ということらしい。

  

 着物について、華麗な総柄模様は幕府の贅沢禁止令によって腰から下の「裾模様」へと変化していく。上側は流行していた地味に見える「江戸紫」の単色で粋をあらわし、裾ではカキツバタの優美な花を配置している。また、その内側には、『八百屋お七』を演じた五代目岩井半四郎が着た「麻の葉鹿の子」が堂々と描かれている。それは「半四郎鹿の子」と呼ばれるようになった。

 帯についても、「昼夜帯」という裏表両面が使える帯で、一見地味そうだが光沢のある黒繻子(ジュス)であるのが粋だ。そしてその結び方は、結びめが横になるふつうの結び方でなく、帯の両端上下の縦に出るように結ぶ「堅(タテ・縦)結び」に見える。帯を締める帯留め・紐がないのが江戸後期の特徴らしい。

  こうして、江戸初期は武士中心のファッションだったのが、中期は裕福な町人、後期は庶民へと主役が変わっていく。その原動力は歌舞伎からで、その役者絵はファッション誌でもあった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする