ヨーロッパで出航の出口を失ったロシアは最近は日本海への脱出口を探っている。大国の戦火と力による現状変更は時代錯誤ではなく、実際に直面している現実となっている。また、わが国内の閉塞した状況での犯罪・殺人事件も止む兆しはない。
そんな中だからこそ、紀元前8~3世紀の中国で群雄割拠する春秋戦国時代に一石を投じた「老子」に注目せざるを得ない。だもんで(方言)、童門冬二(ドウモンフユジ)『男の老子』(PHP研究所、2007.11)を読む。「男の」という表題は気にくわないが、企業戦士・サラリーマンをターゲットにしているからなのだろうか。そこがもう著者の勇み足に思えてならない。
戦乱と殺戮が絶えない紀元前中国の乱世のさなか、孔子・孟子・孫子・墨子・老子など「諸子百家」の学者・ブレーン集団が創出していく。これらの思想が現代でも受け継がれているというのが大国のすごいところだ。戦争は国も人も暮らしも疲弊させていく。そんなとき、老子は「小国寡民(カミン)」のユートピアを提唱する。つまり、「住む人の少ない小さな国」だ。
それはまさに、オラたちが住む過疎地ではないか、過疎地で桃源郷を実現していくことこそ老子の「道」ではないかと、我田引水の欲が動き出す。著者によれば、「良識を持った自己自治のできる人間」として、「常に弱く・柔らかく・後ろへ退く<へりくだりの精神>を発揮しつづけることだ」ということになる。
老子というと現実逃避の空気を感じないでもない。しかし、自分たちの命や暮らしなどの安心を守るうえではそれも一つの選択肢だ。実際オラがこの過疎地にやってきたのもそんな精神状態があったのも否定しない。と同時に、今この過疎地に暮らしていて精神的な安らぎと自然からの恵みや豊穣をいただいていることも間違いない。老子の言う「無為自然」、自然の摂理に満ちた次元と清貧のぎりぎりの次元とに身を置いて、謙虚に現実を生きる、という発想は「小国」の地方が豊かに生きる上で大きな目標となる。
東京都の幹部管理職だった著者が都会に住む自分が老子的発想を取り入れている暮らしを時間軸で紹介している。つまり、桃源郷のような環境でない都会でも老子的生き方は可能だとする。著者のそれは確かに規則的でストイックな精神生活だ。だからか、本書を80歳で書き上げるほどのパワーが漲っているわけだ。が、うがった見方をすれば、エリート官僚らしい優等生的暮らしがあり、本書も老子をよく勉強している成果の賜物でもある。ただし、伊集院静のような苦悩の果てから産み出された言葉の迫力が感じられない。
実在したかが不明の老子ではあるが、戦火の中で人間いかに生き抜くのかという究極に置かれた老子たちの苦悩にもっと迫ってほしい、と無理難題が疼いてしまう。しかしながら、恵まれた環境にありながらもあえて老子を取り上げた著者の奮闘・感性・優しさは公務員の鑑であったのは伝わってくる。
小国の実現には、「個人の自治力が基盤」であるとの視点はまさにその通りだが、その実現はかなり難しい。と同時に最近は、過疎地や地方をあえて移住する若者たちがいることや「ポツンと一軒家」の番組に出てくる高齢者の生き方にはまさに老子的生き方をかなり実現しているように思える。そこに時代を拓くひとつの可能性がある。