どうも敗者の歴史に目が行ってしまう。幕末の水戸藩で5000人もの死者を犠牲にしたという「水戸天狗党」にからむ悲劇に関心を持った。そこで、山田風太郎『魔群の通過 / 天狗党叙事詩』(ちくま文庫、2011.5)を読む。山田風太郎といえば、史実を奇想天外・魑魅魍魎のドラマ展開で人気である。
しかし、この天狗党叙事詩は、史実を丹念に吟味しながら生々しい凄残さとロマンの行方の儚さが読後の余韻に漂う。今までの娯楽小説中心ではなく真摯な風太郎の怒りとやるせなさがにじみ出た傑作となった。表紙は南伸坊のデザイン。
(武将ジャパンwebから)
徳川御三家の一つ、水戸藩といえば、「尊王攘夷」で幕末の志士たちを鼓舞した理論的支柱となった。藤田東湖は水戸藩主徳川斉昭の片腕として藩政改革をするとともに攘夷政策の中心人物となる。一方、西郷隆盛をはじめ全国にも影響をもたらした。天狗党の藤田小四郎は東湖の四男。
東湖の影響により下級武士を中心とした攘夷派には有能なブレーンたちが育ち、彼らが藩の中枢を占め始めると保守派との抗争が激化する。「天狗党」のネーミングは、成り上がり者が天狗になっているという保守派の軽蔑が込められているようだ。
水戸藩の内部抗争は複雑で混乱の極みだった。一か月単位で「藩論」が変わり、内部での粛清・テロなどの直接行動も深刻化する。そんななかで、藩政改革に挫折した天狗党は、藤田小四郎らが筑波山で攘夷実行を幕府にアッピール。元家老の武田耕雲斎らは徳川慶喜経由で朝廷に天狗党の「志」を奏上すべく京都へと「長征」していく。
しかし、1000人くらいの天狗党も食料が豊富にあるわけでもなく、現地調達という略奪・殺戮を各所で行うこともあり、幕府軍は天狗党を「賊」として追討を決定。天狗党は大砲・鉄砲などの武器運搬をはじめ、道なき道の進軍の厳しさは勿論のこと、冬の峠越えは難航を極めた。
渋沢栄一が旧友の小四郎らに慶喜からの降伏の密書を持って行ったらしい。それを拒否したものの降伏するや、耕雲斎ら830名近くが逮捕、ニシンの蔵にすし詰めされるなどして死者も頻発、結果的には353名が斬首となる。
攘夷を貫くという大義が「魔群」となり、各地方を荒し「通過」していく。それを立派な「勇士」ととらえる武士や農民らもいたようだが、実態は有難迷惑だった。各藩はなるべく戦闘は避けて宿舎を用意したり、現ナマで暴れないよう懐柔した。農民にとっては一時挑散したり、村ごと全焼させられたりの被害も大きかった。このあやふやな行軍の大義は多くの血と汗と人生を巻き込んでしまった。(図は「SAMとバイクとpastime」webから)
山田風太郎は、武田耕雲斎のせがれであり当事者だった源五郎を語り部として悲惨な史実の黒子として採用し成功している。それは純粋な志が現実の壁に次々裏切られ、しかも凄惨な死を産み出していく過程の歴史小説でもある。それは「討つもまた討たれるもまた<敗者>の地獄」だった。皮肉にも、水戸の攘夷理論は薩長の御旗に変質し倒幕にすり替わってしまった。なんのための行軍だったのか。そんな怒り・苦衷・儚さ・慟哭がじわじわと迫ってくる。
イデオロギーの魔界にすべてを失った男衆のなかに、女性の「人質」がいた。ここに風太郎らしい仕掛けがあった。その人質の「警護・監視」をしていたのが、十代の少年武士だった。その一人の語り部の武田源五郎は少年だったため斬首は免れた。イライラする行軍にホッと一息入れるのが人質の女性だった。詳細は著書に譲る。
風太郎はたんたんと源五郎に語らせる。「それにしても、これほど徹底して見当ちがいのエネルギーの浪費、これほど虚しい人間群の血と涙の浪費の例が、未来は知らず、少なくともこれまでの歴史上ほかにあったろうか」と。
天狗党幹部の家族の妻子は皆殺しとなった。しかし、幕府がなくなると今度は天狗党の残党が水戸の中枢を握り残酷な復讐をしていく。そのため、明治政府には水戸出身の高官はいない。天狗党蜂起のロマンは、「水戸内部の惨劇が、血で血を洗う復讐ごっこの反復で、あとにはだれもいなくなった」という結末だった。挫折経験豊富な風太郎の静かなまなざしがはかなく光る名作だった。