前々から気になっていたのは、明治維新は日本の近代の幕開けにふさわしい選択だったのかという疑問だった。そんなとき、週刊誌的なセンセーショナルなタイトルが気になる本があった。それをついに読みだしてしまった。原田伊織『明治維新という過ち』(講談社文庫、2017.6)、副題が「日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」だった。
江戸から明治への歴史的変貌は、徳川に勝った官軍・薩長政府のプロパガンダによる教育が現代にも深く浸透していると著者は怒りを露わにする。要するに、官軍の羅針盤なきクーデターで徳川が築いてきた精神的歴史的平和的遺産を破壊してしまったというわけだ。それをあきらかにしないと、「この社会に真っ当な倫理と論理が、価値を持つ時代が、再び訪れることはない」と著者は断言する。
著者の、吉田松陰・坂本竜馬・高杉晋作・西郷隆盛などへの志士への批判は手厳しい。その批判は荒っぽい展開だが、みょうに説得力がある。最近、竜馬の黒幕はイギリスだという説もだんだん強くなってきたのを感じる。むしろ、幕末の徳川側の武士・官僚の外交力の高さが評価されてもいる。
著者は、明治維新至上主義を語る司馬遼太郎の錯誤をたびたび指摘しているが、次の司馬の言葉だけは評価する。「われわれが持続してきた文化というのは弥生時代に出発して室町で開花し、江戸期で固定して、明治後、崩壊をつづけ、昭和四十年前後にはほぼほろびた」と。
また、西郷が官位を剝奪され、在野にくだったとき、「新聞各紙が西郷非難を始め、世論がそれに迎合したこと」について、福沢諭吉は「新聞記者は政府の飼い犬に似たり」と弾劾する。これについて著者は、「大東亜戦争前後の新聞に対してもそっくりそのまま当てはま」ると指弾し、それはさらに「今日のメディアにも当てはまるのではないか」と糾弾する。このへんはオイラもおおいに共感するところだ。最近のスマホやパソコンのニュースの玉石混淆のカムフラージュは目に余るものがある。
加えて、幕末の薩摩藩主の後継争い、水戸学の狂気、水戸黄門の苛烈な実像、長州テロリストの過激な暗殺集団、吉田松陰の虚妄等々、知らなかったことが多々あるが、これらの歴史的な蓄積が大東亜戦争へと収斂されていく。
著者は最後に、「私たちは、勘違いをしていないか。…<近代>は<近世>=江戸時代より文明度の高い時代だと誤解していないか」と直言する。これが本書の主題でもある。