自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ヴェーダ: 肉体の巻

2012年10月12日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

平成24年10月12日(金)ヴェーダと肉体・・       

 

先週(10月4日)、ヴェーダの扉で以下の問題を提起して終わりました。 

 肉体は何か?

心は何か?

心の本質は何か?

自分とはだれか?

ヴェーダ思想では肉体はどのようにとらえられているのかが今日のテーマです。

今日と明日の2回でお話しさせていただきます。

誰でも肉体を持って います。当たり前のことすぎて、

そのことをあまり深く考えることがないでしょう。

例えば、欲望 はどこから生まれるのでしょう? 

心の欲望と肉体のそれがあるとしたら、肉体の欲望は 何でしょう?

一般的には、肉体を維持するための欲望、食欲や性欲は、

人間以外どんな動物でも種族の維持にはかかせないものです。

睡眠欲は肉体のメンテナンスのために。

それらは 基本的欲望で、子孫に遺伝子が受け継がれ、

種族を維持することもできるわけです。

とても、大切な欲望ですが、動物界と異なることは、人間界では、

それがあるがために、不幸も生まれる。

神様は人をご自分の似姿に創られた~

と聖書の創世記にありますが、それはなんでしょう?

それは自由です。 神様と同様、人間は、自由の意思 を与えられて、

基本的欲望は自分でコントロールするという

責任をも与えられたのです。

何事も適当というのは難しい。 だから、動物界では本能として、

自然調節がききますが、人間においては、過度な欲望の

修正が必要です。 

その修正に必要な、意思などのメンタルな力を私たちは持っている。 

視点を変えれば、自由な欲望を

あたえられているから、メンタルな力が鍛えられるのでしょう。 

 

ヴェーダでは 肉体肉体の特質をシンプルに以下のようにとらえています。

 

①  デーハ ②  サリラ  ③  マンディール ④  クシュトラ 

それぞれ、サンスクリット語の意味は、

 デーハ―とは “燃えるもの”の意味。

 この肉体はいつか死んで燃やされ灰になるのでこう呼ばれる。

② サリラとは 朽ちてなくなるという意味。

いかなる頑丈に鍛えた肉体でも、いずれは、老化し、機能は衰え、

病になり、死を迎え、そして朽ちていく定めを持っている

③  マンディールは 神殿・寺院という意味。 

肉体は、神聖な魂(アートマ)が座す、神殿でもある。

 

ヴェーダ思想では肉体と魂・アートマ) に一線をひいています。 

肉体は朽ちるもの。魂は生き通しであるというように。

肉体とそれに属するものは、肉体の死と同時に消滅して、

魂に属するものは、肉体が死んだあとも生き通しである存在

です。

肉体は朽ちて燃やされ消えてなくなるが、魂は違う。

 

③のマンディール(神殿)というとらえ方は、肉体の究極の目的を、

魂がこの世(現象界)に生きるための、

必要な大道具としてとらえているのです。 

つまり、肉体は朽ち生き通しの魂が宿る神殿としての役割を果たしている

というわけです。 

魂が永遠であるといっても、一般の、われわれにはピンとこないかも

しれません。

それは、皆様が”私”と感じている意識は、死んでも、生き通しであると

いうことです。

前生の記憶は、現生の肉体に入る前に一時的に消されるといいます。 

なぜなら、私たちの新しい人生の中で、混乱を防ぐためと、

”今生” に集中して過去にとらわれず、善き人生を送るためであると

いいます。

 

まれにまだ前生の意識を残して成長する場合があることは、以前にも

お話ししました。

筆者の友人の娘も、4歳ぐらいまでは 空を飛ぶ飛行機を見上げる度に

“私の夫はパイロットだったの。 とても裕福で贅沢な暮らしをしていたわ、

子供たちは元気かしら?“ などと友人に

語ったそうです。

友人は困惑していましたが、今ではその時の記憶もなく、娘さんは普通の

生活を送っています。

肉体の4番目の呼び方は、④  クシェトラです。 畑という意味、または聖地 

という意味です。

 

種を蒔き、良い収穫をえるための畑が肉体で感情や想念が種。 

良い想念をいだけば、よい結果が生まれるように、良い種を蒔けば質の

良い作物が収穫できるという意味で畑と呼ばれます。

 

キリストが“自分自身で蒔いた種を収穫する” のが人生の常と説くが、

ヴェーダでは肉体そのものを、”収穫する場所”としてとらえています。

その肉体が良い収穫に恵まれれば、その土地は祝福された地と呼ばれ、

そこから、意味が派生して、“聖地”の意味も付け加えられたのでしょう。  

 

さらに、肉体が畑であり、聖地であるという喩(たとえ)にはもう一つ

の深い意味があります。

”肉体は神殿であり、寺院であり、聖地である。”

と、肉体をとらえているとしたら、それにふさわしい、良質のエネルギー源

体内に摂取することに心がけなければならないということです。 

この場合のエネルギー源とは、必ずしも、食べ物から摂取するとは

限りません。

元気は、いい友人や仲間たち、優しい、真実の言葉、

思いやりのある行動や美しい芸術作品や音楽などからも与えられます。

そして、食からも。 明日は引き続き、食と元気 をヴェーダ的に

お話ししたいと思います

 

続く・・・・

 

 

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