動的平衡
2020年4月9日(木)
「動的平衡」。
生物学者の福岡伸一青山学院大学教授によると、生命の定義は、「絶えず自らを壊しつつ、常に作りかえて、あやうい一回性のバランスの上にたつ動的なシステムである」ということです。
これ、4月3日の朝日新聞に載った福岡さんの「動的平衡 ウィルスという存在」というコラムに載った一節です。
私は、このコラムを5回以上読みました。部分的には10回程度読んだところもあります。ところが、何回読んでも難解で、訳解んないです。
ただ、部分的には少々理解できるところもあり、驚愕でありました。
①ウィルスって、代謝も呼吸も自己破壊もないので、先の定義によると生命ではないというのです。ただ、無生物でもない。広く「生命体」というのが福岡さんの説明です。
②今コロナは、目に見えないテロリストのように恐れられていますが、宿主である人間の方が積極的にウィルスを招き入れているとさえいえる挙動をしている、というのがHさんの説明です。
③ウィルスは構造の単純さゆえ生命発生の初源から存在したかといえばそうではなく、高等生物が登場したあと、はじめて現れ、高等生物の遺伝子の一部が外部に飛び出したもので、もともと私たちのものだった、という驚愕の説明をHさんはするのであります。
④ウィルスは外部に家出し、またどこかから流れて宿主は優しく迎えいれるのですが、なぜそのようなことをするのか?Hさんは「おそらく」ウィルスこそが進化を加速してくれるからだ、と言います。
親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わりませんが、ウィルスは感染しますので、水平方向に伝達する、つまり遺伝情報が伝わるって訳であります。余談でありますが、トヨタ生産方式による「ヨコテン」に似ていますなぁ!
⑤ウィルスの運動は、ときに宿主に病気をもたらしますが、病気は免疫システムの「動的平衡」を揺らし、新しい平衡状態を求めることに役立つ。つまり、集団免疫になるってことでしょうか・・。
Hさんの結論でありますが、「ウィルスは私たち生命の不可避な一部であるがゆえに、それを根絶したり撲滅することはできない。私たちはこれまでも、これからもウィルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない。」ということ「なの」であります。因みに、ウィルスの大きさの単位は「ナノ」(10憶分の1)であります。
今、誰も不謹慎なこととして言わないのでありましょうが、コロナで死ぬって、淘汰じゃなかろうかと思うんです。
先のHさんの説明では、免疫システムがヨコテンされているハズでありますが、全ての人がそうだとは限らないと思われます。コロナに耐性のない人が生き延びるって、これからコロナ以上に毒性の強いウィルスが発生すると人類滅亡になるやも知れません。そういう訳で、コロナに耐性のない人は、申し訳ないけど淘汰されるって想像であります。ウィルスって、自己増殖できません。あくまで宿主がいないと生きていけませんので、宿主が絶滅になると困るのであります。以上、私流俗説であります。(ハハハッ)
次は、3月13日の私のブログですが、長崎大学教授の山本太郎さんも、「共存、共生」を述べています。
感染症と社会 目指すべきは「共存」
2020年3月13日(金)
長崎大学の山本太郎教授が、ウィルスとの「共生」「共存」を目指すべきと言っておられます。
11日の朝日新聞です。
ウィルスにとっては、「人間は大切な宿主。宿主の死は自らの死を意味する。病原体の方でも人間との共生を目指す方向に進化していくのです。」
これ、逆説的でありますなぁ。「逆説的」とは、「北風と太陽」の話のようなイメージであります。
私は、3月3日のブログで、次のように書きました。
↓
人類はウィルスとの戦いの歴史であると言い、中国の習近平主席は、ウィルスとの戦いは人民戦争だと言っています。戦争ではなくて、平和に共存する道があるのではないか? 地球からすれば、意味のない生命体ってないからであります。「お迎えウィルス」を謙虚に受け止めましょう。
以上、空想の世界であります。(ハハハッ)
私が言うと「空想」でありますが、科学者が言うと「空想」でなくなるのであります。
中でも、「病原体の方でも人間との共生を目指す方に進化」とは!最近似たような話を聞きました。
イスラエルの文化人類学者のユヴァル氏が言っていることであります。
「農耕」は繁栄の象徴として語られることが多かったように思うのですが、ユヴァル氏はこの思い込みに痛打を食らわせています。農耕民の生活レベルは狩猟採集民のものよりも満足度が低く、苦労して労働したほどの見返りを得られていないといいます。ホモ・サピエンスは小麦に家畜化された犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ『サピエンス全史』上p.107 しかし、総量だけが爆発的に増えた食料は、ホモ・サピエンスの総量も増やし、結果的に狩猟採集の社会には戻れなくなってしまいました。ユヴァル氏はいいます。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ『サピエンス全史』上p.107としています。
これ、いずれも、私には、人類の驕りに対する警鐘であるように感じます。どのような「驕り」か? 科学文明で何でも解決できると思い込む驕りであります。何故驕るのか?それは欲望を実現したいからであります。
ただ、欲望を完全に無くすことは、できません。ただ、それを最適化することはできると思うのです。それが真の文明だと思うのです。「最適化」とは、人類全体の「共存」「共生」であります。現代社会は、一部の特権層のみの「共存」「共生」であります。
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空想以上に訳分からなくなりました。(ハハハッ)
以下、ネットからの引用です。
「ウイルスは撲滅できない」福岡伸一さんが語る動的平衡
ウイルスとは電子顕微鏡でしか見ることのできない極小の粒子であり、生物と無生物のあいだに漂う奇妙な存在だ。生命を「自己複製を唯一無二の目的とするシステムである」と利己的遺伝子論的に定義すれば、自らのコピーを増やし続けるウイルスは、とりもなおさず生命体と呼べるだろう。しかし生命をもうひとつ別の視点から定義すれば、そう簡単な話にはならない。それは生命を、絶えず自らを壊しつつ、常に作り替えて、あやうい一回性のバランスの上にたつ動的なシステムである、と定義する見方――つまり、動的平衡の生命観に立てば――、代謝も呼吸も自己破壊もないウイルスは生物とは呼べないことになる。しかしウイルスは単なる無生物でもない。ウイルスの振る舞いをよく見ると、ウイルスは自己複製だけしている利己的な存在ではない。むしろウイルスは利他的な存在である。
今、世界中を混乱に陥れている新型コロナウイルスは、目に見えないテロリストのように恐れられているが、一方的に襲撃してくるのではない。まず、ウイルス表面のたんぱく質が、細胞側にある血圧の調整に関わるたんぱく質と強力に結合する。これは偶然にも思えるが、ウイルスたんぱく質と宿主たんぱく質とにはもともと友だち関係があったとも解釈できる。それだけではない。さらに細胞膜に存在する宿主のたんぱく質分解酵素が、ウイルスたんぱく質に近づいてきて、これを特別な位置で切断する。するとその断端が指先のようにするすると伸びて、ウイルスの殻と宿主の細胞膜とを巧みにたぐりよせて融合させ、ウイルスの内部の遺伝物質を細胞内に注入する。かくしてウイルスは宿主の細胞内に感染するわけだが、それは宿主側が極めて積極的に、ウイルスを招き入れているとさえいえる挙動をした結果である。
これはいったいどういうことだ…