「奇襲」とは、「不意に襲撃すること、奇策で敵を襲撃すること」とすれば、確かに真珠湾攻撃は奇襲であろう。
此の國は宣戦布告はしていない。交渉打ち切りの通知は会見し手交する予定の時間に1時間20分遅れた。
ルーズベルトの云う「騙し討ち」という非難を要約すれば、―
「両国は平和維持の為の協議中だった。にもかかわらず、オアフ島に爆撃を加えてから1時間経過した後に駐米大使がアメリカのメッセージの回答を持参したが、この交渉は無意味とあるだけで、戦争や軍事攻撃につながる警告や兆候は含まれていなかった。日本とハワイの距離を考慮すれば、この攻撃は周到に計画されたものは明らかで、その間日本はアメリカを欺こうとしてきたのです」―という内容であった。
敗戦後の東京裁判で、次のことが明らかになった。
11月26日に艦隊は単冠湾(ヒトカップワン)を出発し、布哇に向かっていた。奇しくも同じ日に米国のメッセージ(ハル・ノート)を受け取った日でもある。
児島襄『昭和16年12月8日』文芸春秋より
当時の緊迫した状況は知る由もないが、窮鼠猫を噛むという行為をルーズベルトとその側近たちは気にしていなかったのであろう。
既に11月4日には、グルー駐日大使は「国家的ハラキリをやらかす」可能性を言及した電報を送っていたが、ルーズベルトは深刻に受け止めなかった。
日本側は日米交渉が成立すれば、攻撃を止めることになっていたが、ルーズベルトからの親電は日本側には交渉成立の内容ではなかった。しかも、その「親電」が偶々12月7日という真珠湾攻撃の前日に着くとは、戦争の神の悪戯としか思えない。
東京裁判で東郷は真珠湾攻撃のことは知らなかったとしている。これもおかしな話で、参謀本部騙『杉山メモ』では11月29日に知ったことになっている。
東京裁判では、駐米大使館のタイプの不手際で交渉の回答が遅れたということを東郷は主張した。東郷はまた1952年刊行の『時代の一面』で広く世間に公表したのである。
東郷の部下だった加瀬俊一北米課長も1975年の著作物でタイプの下手な一等書記官として奥村勝三の名を出した。
此の大使館のタイプ・ミス事件は更にコンクリートされて、1999年の北岡伸一の著作物で「ああした形で通告が遅れ、日本が卑劣であると非難をされる。」と書かれることになった。
この日本大使館のタイプ・ミス事件は20世紀においては歴史的な大使館の事務のミスとして扱われることになった。
因みに東郷は交換船で帰って来た大使館の井口貞夫参事官にタイプ・ミスのことを尋ねたが、その答えは「自分の管掌事務に有らざりし為承知しない」との素っ気ない返事だった。これも多くの反感を買うことになったようである。
日本側としては、真珠湾攻撃は「だまし討ち」や「奇襲」ではない。単に日本大使館のタイプ・ミスにより、最後通牒の通告が遅れたのだと主張したいのであろう。(次回へ)
【参考文献:東郷茂徳『時代の一面』、参謀本部騙『杉山メモ』、加瀬俊一『日米開戦前夜』、北岡伸一『政党から軍部へ』】