玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

日米戦争 ー日本大使館のタイプ・ミスによる真珠湾奇襲ー⑻

2022-09-12 13:57:12 | 近現代史

日本人の多くは、真珠湾攻撃は当然に奇襲だったと思っている。

日本人はこの国の歴史上の源義経や織田信長の闘い方を見て、「奇襲」も戦法の一つと許容している風土がある。

国際法の世界では、ハーグ条約「第1条(宣戦)締約国ハ理由ヲ付シタル開戦宣言ノ形式又ハ条件附開戦宣言ヲ含ム最後通牒ノ形式ヲ有スル明瞭且事前ノ通告ナクシテ其ノ相互間ニ戦争ヲ開始スヘカラサルコトヲ承認ス。」となっている。

1912年1月13日公布され、日本も加入していた。国際法上は事前に最後通牒なり、宣戦布告をしてから戦争することになっている。

果たして、日本は真珠湾攻撃の前に「開戦宣言ヲ含ム最後通牒ノ形式ヲ有スル明瞭且事前ノ通告」をしたのだろうか。

東郷外相は「日本が自衛をするために、米国が日本に手出しせしめるように仕向けた事実からみて、あれで十分である」と書いている。つまり最後通牒の形式でなくても、「交渉打ち切りの通知」だけで充分であるとした。

ただ大使館のミスで通告自体が攻撃後になったことは如何ともし難いという事態であった。

完璧主義者の彼にしては、その怒りは案外あっさりとしていた、と回想録からは窺えた。彼は出先の大使館の不手際に通知遅れの責任を負わせたが、野村駐米大使に詰問することはなく、大使館事務の総括の井口貞夫参事官に責任を負わせたように感じる。

戦後になって、彼の部下だった加瀬俊一北米課長は、致命的なミスを招いたタイプの下手な一等書記官は奥村勝三だと名指した。

これらの証言から「日本大使館は開戦直前という意識に欠ける。ああした形(タイプの遅れ)で通告が遅れ、日本が卑劣であると非難をされる。」とまで、北岡伸一は「日本は国際法上の義務を果たせなかった」と厳しく大使館を責めた。

此の論調は、世紀末まで、権威ある政治学会では有効な論述とされた。ところが、1989年昭和天皇崩御により近現代史の蓋は開いていた。翌1990年に豊下楢彦は「昭和天皇とマッカーサー会見」についての論文を発表した。1945年9月の会見における日本側の通訳は、加瀬に名指しされた、タイプが遅い、件の奥村勝三であった。

敗戦直後は「真珠湾奇襲を天皇は予め知っていたのか?」と喧しい時に、その奇襲の原因を作った張本人が二人の巨頭の通訳を勤める不可思議を北岡伸一は気が付かなかったのか?

もし仮に、マッカーサーが「天皇は真珠湾奇襲を知っていたのですか?」と聞いたら、通訳の奥村は「実は私が悪いのです」と言わねばなるまい。

何故、東郷は虚偽を死ぬ前の回想録に残したのか、…?彼はまだ死ぬとは思っていなかったのかもしれない、…。(次回へ)

【引用・参考文献:児島襄『昭和16年12月8日』、東郷茂徳『時代の一面』、加瀬俊一『日米開戦前夜』、北岡伸一『政党から軍部へ』】

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