日本はハーグ条約に基づく宣戦布告は行っていない。単に交渉打切りの通知でしかなく、それも攻撃時間より後に届いた。ハル・ノートをアメリカの最後通牒と捉えて、交渉打切りで良いというのは我田引水の理論である。
ともかく海軍は真珠湾奇襲をして勝利を手にしたかったのである。最終的に軍部に従った外務省は、戦後になって「交渉打切り」を「宣戦布告」とみなし、通知が遅れたのは出先の大使館の事務ミスに責任転嫁した。
外務省のこだわりは、攻撃の30分前に「形だけの交渉打切り通告」だけはしたい程度のことだった。しかし、それも「ルーズベルト親電」の出現で予定通りに電報が打てず、結果として1時間20分の遅れの通告となった。
敗戦国となり、奇襲の責任を回避するために虚偽で取り繕うとした。
理由の一つは、東京裁判で東郷の罪を軽くしたかったのであろう。もう一つの理由は、天皇の責任回避であった。
米国占領後の1945年9月18日、首相官邸に100名を超す外人記者が集まり、「真珠湾奇襲を天皇が知っていたのではないか?」という質問が出た。東久邇宮首相はこれにまともに答えられなかった。その後「宣戦の大詔は東條のごとくにこれを使用することは、その意図ではなかった」と新聞発表し、奇襲の責任を東条に押し付けた。
つまり天皇が大戦の詔書を出しただけで、天皇が与り知らぬところで、東條が勝手に奇襲攻撃をしたことにした訳である。
結論を言うと、天皇は奇襲攻撃を知っていたとみるべきだろう。
開戦時に海軍に所属した高松宮の日記では、12月3日の件に、「12月8日が開戦日だ」と明確に書いてある。また、11月30日の午後1時半には高松宮は三笠宮同伴で陛下に拝謁したことが『木戸日記』には記されている。
高松宮は「海軍は手一杯で、できれば日米戦争は避けたい」との情報を天皇に持ってきた。この日の夕刻、海軍大臣、総長を呼び、高松宮の情報を尋ねた。両者は相当の確信をもっていると奉じたとか、そこで陛下は「予定通り進めるよう首相に伝えよ」と下命した。
天皇は8日開戦も、多分奇襲のことも知っていたのであろう。
だが『高松宮日記』には、昭和16年11月14日から30日までの17日間の記述がない。その確たる理由も原因も解らない。
天皇が開戦のことを知っていること、命令もしていることについて、『高松宮日記』と『木戸日記』との突合を避けたかったのであろう。
『高松宮日記』は昭和天皇崩御後の1995年に刊行されている。どうしても20世紀内は蓋をしておきたかった考えるほかはない。誰がそう思ったのか?どの機関がそう決定したのか、それとも出版社の忖度か、全く解らない。
(次回に続く)
【参照文献:松尾尊兊「昭和天皇・マッカーサー元帥第1回会見」『京都大学文学部研究紀要』1990年、吉田裕『昭和天皇の終戦史』、『高松宮日記Ⅲ』中央公論社】