豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』には、タイプ・ミスをした奥村勝三が第1回と第4回の通訳を勤めたことが書かれている。
先の日米戦争で最後通牒を渡すのを遅らした張本人が、何故、選りにも選って、通訳を勤めるという異常さに政治学会は違和感を持たなかった。
然も、奥村勝三は外務次官まで上り詰めた。当時の大使館事務の総括だった井口貞夫も外務次官まで上り詰めている。
抑々、何故通告が遅れたのか、あるいは意図的に遅らしたのかを、この國は1989年の天皇崩御まで約半世紀の間隠蔽したのである。
日本大使館のタイプ・ミスの問題は21世紀を迎えて新たな展開へと進んでいくことになる。
一つの論文にぶつかった。―井口武夫「対米最終覚書と米大統領親電の解読工作をめぐる史実の再検証」『国際政治』第144号「国際政治研究の先端3」2006年―
この著者の名前を見た時から、何か感じるものがあった!!
外務省の出先の大使館が犯した「致命的な事務ミス」の総括責任者が井口貞夫参事官だった。その息子である井口武夫は、父と同じに外交官になり、退官した後に研究生活に入り、この論文で敢然と父の汚名を子供が晴らしたのである。
それが一冊の本となって、2008年に『開戦神話―対米通告はなぜ遅れたか』中央公論社から刊行された。
そこには明確にその通告の遅れの仕組みが解き明かされていた。簡単に言えば、
- 東郷外相及び外務省は真珠湾奇襲の成功の為に通告を回避することを軍部いわゆる統帥部から迫られた。
- 東郷は通告だけはしたいと主張した。
- それでぎりぎりの時間設定で、且つ、最後通牒の文章ではなく、単に交渉打ち切りの文章で納得させられた。
- その文章は全部で14章に区切られる長文で、最後の交渉決裂の電文送る段になった時に、予期せぬ「ルーズベルト親電」が舞い込む事件となってしまった。
- それによって、外務省が大使館への電報を送るのが遅れたのが本当の理由だった。
つまりは、外務省は二重の嘘をついたことになる。
本来はハーグ条約に基づく「最後通牒」を出すべきところを、軍部の圧力に負けて、「交渉決裂」の内容になっていたこと。
次に送るべき結論部分を、予期せぬ『ルーズベルト親電』が来たことによってその対応の為に、送るべき時間に自ら遅れていたことになった。
なぜ、こんな嘘をつき通したのであろうか?(次回へ)
【参考文献:豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』、井口武夫『開戦神話』】