近現代史というのは、どこから入ろうとするか、これは人それぞれ、王道はなく、教科書の進み方でもなく、要するにどこからでも自由である。
今回は『昭和天皇独白録』から入ってみる。第1巻の最終項に「ルーズベルト大統領の親電」と出てくる。そこには「この親電は非常に事務的なものであった。首相が外相に宛てたような内容であったから、黙殺できた。」と昭和天皇は述べた。
グルーの『滞日十年』の中にその親電の全文が出てくるが、それを読むと「事務的なもの」と感じられなかった。日米緊迫の時期に呑気な君主の親書と言う感じで、これから親書を交換する第一段と見れば、この程度のだるい内容でも良いのではないかとの見方もできる。
1952年に刊行された東郷の『時代の一面』では、天皇に拝謁した時の状況をこう記している。
「陛下に(ルーズベルト親電の)全文を読み上げ、七月大統領より同様の申し出があった際の成行きを説明したるうえ、先刻総理と相談したご回答案について申し上げた。そして陛下の御嘉納があったので御前を3時15分に退下し、3時半に帰宅した。」と。
この日は12月8日。つまり真珠湾攻撃の当日であり、ほぼ同時刻なのである。
偶然の悪戯か、真珠湾奇襲の当日に舞い込んだ「ルーズベルト親電」とは、厄介極まりない事であったことは間違いない。
1990年に文芸春秋に載った『昭和天皇独白録』には、先ほどの天皇の言葉の前段には「東郷は既に6日にハワイ沖で潜水艦が2隻やられているので、答えない方がいいと言った。」と記されていた。これの方が事実に近いと思うのだが、…?
近現代史というのは、その歴史の時間の節目、節目に当たる重い幾つかの蓋があって、その一つが開いた時、歴史の一級史料が伏流水のようにドクドクと溢れ出してくるものだ。このケースは1989年1月の昭和天皇崩御によって重い蓋が開いたのである。
ここに来て、東郷が死を前にして遺した『時代の一面』とは、後代の者たちに歴史として一体何を残したかったのだろうか、との疑問がわいてきた。
結局、自らの名誉の為か、外交の正当性の為か?単に自らの苦労話の羅列なのだろうか?それとも天皇の戦争責任の回避を目的としたのだろうか、…。
兎も角も『ルーズベルト親電』は残念だが時間切れの切り札だったのである。
ルーズベルト大統領は真珠湾奇襲攻撃を受けて、「騙し討ち」と日本を強く非難した。果たして「真珠湾攻撃」は奇襲だったのか?ルーズベルトの言う騙し討ちだったのか?
そして、真珠湾攻撃のことを東郷や来栖・野村の両大使はどこまで知っていたのだろうか?そもそも『ルーズベルト親電」とは何だろうか。
色々、疑問があるが、・・・(また、次回へ)
【引用・参照文献:グルー『滞日十年』、寺崎英成『昭和天皇独白録』、東郷茂徳『時代の一面』】
街中でも、鱗雲がきれいだ。