ちょうどその頃、病院船の高砂丸が、ブーゲンビル島や近辺の島から負傷者を乗せて入港するという知らせが入った。
陸軍病院にも連絡を取り、大発艇や小発艇の手配と停泊位置を決める様にと司令部からの指示があった。
停泊位置を決めて、早く負傷兵や患者を病院に運ぶ手配をせねばならなかったが、ココボには岸壁埠頭がなかった。
なるべく、陸岸近くに停泊するようにと手旗で交信しなければならなかった。
そして、病院船「高砂丸」を待つ間に、負傷兵、患者を降ろす為のダイハツ艇を用意して、約1時間を過ぎた頃、白い船体に大きく赤十字のマークがついた高砂丸の姿が見えたのである。
私は、急いで一番近い場所まで行って、沈船を目標にした。
咄嗟に「チンセンノ・ホッポウ・ナルベク・リクガンチカクニ・トウビョウセヨ」と手旗信号を送ると、高砂丸の船橋から、折り返し「リョウカイシタ」との応答を受けた。
高砂丸は、正確にその位置に投錨し碇泊したので、早速、大発艇を向けて負傷者を降ろして病院へ移したのである。
その頃は、ソロモン諸島での戦闘は激しい最中で、負傷した将兵は次々に、ココボの病院に運ばれた。
一時的に応急手当を受けたが、重症者は、再び内地または後方地に転医となり、治療を受けるとの事だった。
スラバヤでも、ココボでも、手旗信号員として勤めていたが、あの時、高砂丸に送った手旗は、今も、印象深く心に残り、私は、いつまでも忘れる事はない。
(その後、高砂丸は病院船の為に、敵の攻撃を受ける事もなく、終戦後迄残って、中国方面の復員船として活躍した。終戦後、高砂丸の姿を見たことがあり、あの時を懐かしく思い出した事もある。http://ww6.enjoy.ne.jp/~iwashige/takasagomaru.htm)
陸軍病院にも連絡を取り、大発艇や小発艇の手配と停泊位置を決める様にと司令部からの指示があった。
停泊位置を決めて、早く負傷兵や患者を病院に運ぶ手配をせねばならなかったが、ココボには岸壁埠頭がなかった。
なるべく、陸岸近くに停泊するようにと手旗で交信しなければならなかった。
そして、病院船「高砂丸」を待つ間に、負傷兵、患者を降ろす為のダイハツ艇を用意して、約1時間を過ぎた頃、白い船体に大きく赤十字のマークがついた高砂丸の姿が見えたのである。
私は、急いで一番近い場所まで行って、沈船を目標にした。
咄嗟に「チンセンノ・ホッポウ・ナルベク・リクガンチカクニ・トウビョウセヨ」と手旗信号を送ると、高砂丸の船橋から、折り返し「リョウカイシタ」との応答を受けた。
高砂丸は、正確にその位置に投錨し碇泊したので、早速、大発艇を向けて負傷者を降ろして病院へ移したのである。
その頃は、ソロモン諸島での戦闘は激しい最中で、負傷した将兵は次々に、ココボの病院に運ばれた。
一時的に応急手当を受けたが、重症者は、再び内地または後方地に転医となり、治療を受けるとの事だった。
スラバヤでも、ココボでも、手旗信号員として勤めていたが、あの時、高砂丸に送った手旗は、今も、印象深く心に残り、私は、いつまでも忘れる事はない。
(その後、高砂丸は病院船の為に、敵の攻撃を受ける事もなく、終戦後迄残って、中国方面の復員船として活躍した。終戦後、高砂丸の姿を見たことがあり、あの時を懐かしく思い出した事もある。http://ww6.enjoy.ne.jp/~iwashige/takasagomaru.htm)