久しぶりの我が家であったが、落ち着く間もなく志願兵として申請をした。
その徴兵検査の日までに、大島大尉宅を訪れようと思い、早速、四国の高松に渡ることにしたのである。
その当時は、まだ汽車で岡山駅まで行き、宇野線に乗り換えて、連絡船にて高松港まで渡っていた頃で、今と違い随分と時間も掛かり面倒だった。
高松港に渡って、大島邸を訪問するに当たって、少し迷った。
それは預かった手紙の内容を検疫の際に開封されて、或る程度の内容を解っていて気が引けたからである。
大島邸を訪問すると、驚いたことに大変立派な邸宅であって、田舎者の私は、戸惑った。
思い切って、門を潜り、玄関で呼び鈴を押すと、女性の声で「どなたですか?」の声。
「私は、南方のラバウルで大島大尉殿と一緒にいた者です。お手紙を預かって参りました」と答えた。
中で「奥様奥様」と呼ぶ声が聞こえたので、手紙を置いて黙って帰ろうかと思ったが、女中かと思う方が「どうぞお入りください」と案内されて、和室の応接間に通された。
そして、上品な奥様らしき方が、私の前に来て丁寧に挨拶をされたが、唯々、家柄や風格の格差に圧倒されて、対等に返事も出来なかった。
あの当時の私達の生活を思うと、我が家と大島家との間には、考えられないほどの貧富の生活格差があったのである。
少し落ち着いて、現地のラバウルの事情を話して失礼したが、玄関には、私の靴が、綺麗に磨かれてあり光っていた。
短い突然の訪問時間なのに、帰りの土産まで用意されてあり、高松名産の瓦煎餅等のお菓子まで、何も無いけどと言って渡された。
そして、奥様も門まで一緒に出て、丁寧にお礼を述べられていた。
私が歩き出すと、いつのまにか呼んだのか、輪タク(三輪自転車)を待たせてあったのにも驚かされた。
そのまま旅館に戻り、街に出て高松見物をしようと思った矢先に、仲居さんが二階まで駆け上がってきて、「玄関に大島さんという方が来られている」との事だった。
その後、奥様は、ご主人の大島大尉からの手紙を読んだという事を察したが、私は仲居さんに「先程、街に出た」と伝えてくれるように頼んだ。
あとで、大島大尉殿の奥様の気持ちを思うと、もっと詳しい話をすることが出来なかったのかと・・今でも後悔の念が消え去る事もない。
まだ、十八歳だった世間知らずの私が思い出すのも恥ずかしいが・・あの美人で上品な奥様に気が引けたのか、貧富差の劣等感のような、そんな気持ちからかもしれない。
その後、大島家には何も告げずに、そのまま金比羅山にお礼参りをして、私は多度津から船便で故郷の百島へ帰ったのである。
その徴兵検査の日までに、大島大尉宅を訪れようと思い、早速、四国の高松に渡ることにしたのである。
その当時は、まだ汽車で岡山駅まで行き、宇野線に乗り換えて、連絡船にて高松港まで渡っていた頃で、今と違い随分と時間も掛かり面倒だった。
高松港に渡って、大島邸を訪問するに当たって、少し迷った。
それは預かった手紙の内容を検疫の際に開封されて、或る程度の内容を解っていて気が引けたからである。
大島邸を訪問すると、驚いたことに大変立派な邸宅であって、田舎者の私は、戸惑った。
思い切って、門を潜り、玄関で呼び鈴を押すと、女性の声で「どなたですか?」の声。
「私は、南方のラバウルで大島大尉殿と一緒にいた者です。お手紙を預かって参りました」と答えた。
中で「奥様奥様」と呼ぶ声が聞こえたので、手紙を置いて黙って帰ろうかと思ったが、女中かと思う方が「どうぞお入りください」と案内されて、和室の応接間に通された。
そして、上品な奥様らしき方が、私の前に来て丁寧に挨拶をされたが、唯々、家柄や風格の格差に圧倒されて、対等に返事も出来なかった。
あの当時の私達の生活を思うと、我が家と大島家との間には、考えられないほどの貧富の生活格差があったのである。
少し落ち着いて、現地のラバウルの事情を話して失礼したが、玄関には、私の靴が、綺麗に磨かれてあり光っていた。
短い突然の訪問時間なのに、帰りの土産まで用意されてあり、高松名産の瓦煎餅等のお菓子まで、何も無いけどと言って渡された。
そして、奥様も門まで一緒に出て、丁寧にお礼を述べられていた。
私が歩き出すと、いつのまにか呼んだのか、輪タク(三輪自転車)を待たせてあったのにも驚かされた。
そのまま旅館に戻り、街に出て高松見物をしようと思った矢先に、仲居さんが二階まで駆け上がってきて、「玄関に大島さんという方が来られている」との事だった。
その後、奥様は、ご主人の大島大尉からの手紙を読んだという事を察したが、私は仲居さんに「先程、街に出た」と伝えてくれるように頼んだ。
あとで、大島大尉殿の奥様の気持ちを思うと、もっと詳しい話をすることが出来なかったのかと・・今でも後悔の念が消え去る事もない。
まだ、十八歳だった世間知らずの私が思い出すのも恥ずかしいが・・あの美人で上品な奥様に気が引けたのか、貧富差の劣等感のような、そんな気持ちからかもしれない。
その後、大島家には何も告げずに、そのまま金比羅山にお礼参りをして、私は多度津から船便で故郷の百島へ帰ったのである。