ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

南洋編 16 ~空襲~

2010年07月16日 | 人生航海
しかし、そのうちに夜ともなれば、必ず敵の爆撃機ボーイング17の空襲によって心休まる暇もなくなっていた。

敵の主な目的は、ラバウルの港内の停泊船を爆撃する事であった。

そのために、多くの照明弾を投下して港内を明るくして船舶の位置を確かめる必要があったのである。

そのうえで、目標に狙いを定めて爆弾投下したのである。

我が軍の対空陣地も、それに応じて同時に各所からサーチライトを向けて、機影を照らして交差させる。

そして、高射砲や機関砲の一斉攻撃で火を噴く事になるが、その時の蛍光弾射撃は見事であり、赤、青、黄色・・色とりどりの光線が飛んで交わるのである。

あんな光景は、もう二度と観る事もないだろうが、あの光景を初めて観た時の私は、余りの美しさに怖さも忘れて感心したというのが正直な気持ちである。

ただ、それは初めての空襲体験の時だけであって、空襲が激しい時には本当に恐ろしくて生きた心地がしなかった。

また、それにしても当時の日本人には考えられない事もあった。

敵方は、あの戦争の最中でも、日曜日には決まったように、空襲も休みだったのである。

不思議でならなかったが、敵は、日本軍とは違うと感心したものであった。

それを知ってから、私達も日曜日には安心して色々な作業も行動も出来るようになったので、日本軍には都合が良かった。

しかし、日曜日以外は、ほとんど毎日の如くに空襲があるのである。

いつの事だったか、防空壕の前に爆弾が落ちたが、危機一髪で助かった事もあった。

何回か、至近弾も受けたこともあった。

その時に、額の上に破片が飛んできて、軽症を負ったこともあった。

兵舎が焼けた事もあった。

いつどこで、死んでも仕方ないと、ある程度覚悟を決めていたが、生きている心地がしなかった。

あの頃のラバウルでの毎日は、そんな気持ちで過ごさなければならなかったのである。

そんな日が続いていた時、私に信号員として、ラバウル港外のココボへの分隊勤務の命令が出たのである。