ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

愉快楽開

2010年07月08日 | 千伝。
先日、無料化社会実験の高速道路を走った。

かつて片道700円だったものが、只になった。
往復1400円の儲けであるが、もともと道は只で通すものだと感じた。

年金型支払いの生命保険も、相続税のうえに所得税まで徴集し、その上使えば消費税。

税金は、世間から儲けた者が、世間という公共にお返しすることが、好況につながるという仕組みである。

だが、買い物の際に、1000円のものを900円に負けてくれると、ありがとうであるが、100円の追い銭を取られれば、不愉快で購買力が下がるのは必定である。

愉快が景気を押し上げ、不愉快が不況を招く。

残りの人生、「愉快」な仕事、他人を愉快にすることばかり考えれば突破口の開き直り。

南洋編 13 ~さらばスラバヤ~

2010年07月08日 | 人生航海
そんな多くの想いを残して、スラバヤを後にする事になった。

僅か一年半余りの滞在であったが、私にとっての此処での生活は、生涯忘れられないものになっていた。

ようやく落ち着いた矢先の移動命令で、寝耳に水の如く私達の部隊に知らされた。

移動先は、ニューブリテン島にある最前線基地ラバウルとの事だった。

折角住み慣れたスラバヤを後にして、出て行くのは残念と言う他には、何とも言い様のない気持ちであった。

しかし、戦争中の事であって、個人的には何にも言えないのは言うまでもなく、スラバヤに滞在していた時の多くの人に受けた親切は、一生忘れられないものであった。

そして、色々な知識を教えて貰った事も、私の為に大きなプラスとなった。

長い人生の指針となって今日があると云ってよいかも知れない。

移動は、部隊全員でなく、別々の地域へ分散しての移動となった。

特に一緒で世話になった井上軍曹や他に知った将校の人達は、ラバウル以外の戦地となった。

チーモル島やニューギニア方面との事だったが、詳しく知る事も出来ず、その後終戦まで何の消息も分からないままの心ならずも寂しさを残した別れとなったのである。

そして、私達が乗船した輸送船は、敵の潜水艦の攻撃を恐れての事か、船団ではなく、単独の航行であった。

その輸送船には下士官や将校も同乗して、スラバヤで知った人達も一緒だったので、寂しいとは思わなかったし、新たな出会いも又生じたのである。

南洋編 12 ~スラバヤと郷愁~

2010年07月07日 | 人生航海
その頃になって分かったが、同郷の藤本一二三さんの所属していた船舶工兵隊が、すぐ近くにある事を知った。

早速、サイダーやコーヒー等を数箱を車に積んで行ったが、本人は不在で会うことは出来なかった。

品物を渡して貰うように衛兵に頼んで、「また来ます」と言って帰ったが、その後は多忙に追われて再会はできなかった。

後日、一二三さんは満期の為、兵役を終えて帰国したと聞いた。

その後、終戦後まで、一二三さんとは、会う機会は無かった。

それまでの軍属生活の中で、私は、此処スラバヤにおいての暮らしが、一番充実した日々であったかもしれない。

何故、私にあんな仕事が出来る様になっていたのか、不思議に思う他にはない。

よくよく考えて見ると、全てが運としか思えない。

また、毎日のように市街地にも出かけて行ったが、いつしか中国人の若い店員と親しくなった。

何度も会ううちに、マレー語で話すことが楽しみになり、国や人種は違っても、友情や人情に変わりはなく、人間の心の温かさをも知ったのである。

クラガンに敵前上陸して以来、一年が過ぎた頃に最前線のラバウルに移動が決まった。

スラバヤには多くの想いを残したままだった。

今想うと、毎日平然と過ごして、おもうままに戦争など何処吹く風とばかりに過ごしていても、矢張り、私も人の子であった。

「故里は遠きに在りて想うものなり」・・という言葉が、その通りであると実感していた。

人は誰でも、故郷を遠く離れて、初めて郷愁の念にかられ、家族を想い、恋しくなったが、私も歳若くして、故里を離れ、中国や南方の遠い処で働いたが、人は誰しも故郷を忘れる事なく、想いを胸に秘めて、自分の生まれた空の方角を見つめ、親兄弟や田舎を思い出して懐かしみ、心引かれ、椰子の葉の隙間に見える、月に手を合わせて、家族の無事を念じつつ過ごした時も度々あった事を思い出す。


南洋編 11 ~ハーレーダビッドソン~

2010年07月06日 | 人生航海
その仕事に就く事になって、私は、いつも公用証を貰っていたので、外出は自由であった。

特別待遇の扱いを受けていたのであった。

その為、車も自由に乗れたし、ある程度気ままに行動も出来たのである。

その頃は、まだ見たこともなかった珍しいハーレダビッドソンのオートバイにも乗り、走り廻ることもできた。

オートバイの運転は、初めは難しいと思ったが、若い頃でもあったので、覚えるのも早かったのであろう。

すぐに慣れてきた。

夕方になると、人通りの少ないタンジョンベラの大通りを走りながら覚えたのである。

そんな事も楽しみであったが、青春というのか、若き日の一コマであった。

その頃は、日本の軍票紙幣が使用されていたが、最初にスラバヤに入った時に、戦利品も多くあったらしい。

港の埠頭には、何処かに逃げる予定だったらしい貴重品(宝石類や高級時計)を積んだ船が、日本軍の進撃が速かったので逃げ遅れて、そのままになっていたらしい。

そして、多くの貴重品を挑発したという噂も聞いた。

敵方が残した兵器類や放棄した戦利品を徴発して使用したが、オートバイも自動車も徴発品であった。

従って、それら全てが戦利品だった。

最初に、私達がスラバヤに入った頃、近くの街を、よく見て廻った。

ある事務所は、もぬけのからだったが、机の引き出しの中には、ジャワ紙幣が何十束もあった。

どうせ使えない紙幣だと思い、そのまま置いてきたが、あとで聞けば、軍票と同様に使えたと知って、複雑な想いをしたものである。

南洋編 10 ~整理整頓~

2010年07月05日 | 人生航海
こうしてまた、私の新しい仕事が始まったが、主な仕事の内容は、一週間分の献立と予定表を作ること。

そして、それらを軍医と主計将校に提出して許可を得たうえで、現場の炊事兵の責任者が実施する。

ナマノモノ(生の物)の都合で、幾分異なる場合もあったが、予定と実施は多少の違いはあるが、その都度報告していた。

軍には、糧秣廠という処があり、食料専門を取り扱う部隊があった。

主食やその他調味料まで一切の食料品は、そこの糧秣廠に行って伝票を出してトラックで受領して来るのが、私の仕事であった。

他に週に何回か現地人の案内で、近くの漁師町まで、買出しに出かけて、新鮮な海老や魚介類を仕入れて買って来た。

その頃には、私は、既に現地のマレー語で少しぐらいの会話が出来るようになっていた。

また、同じ頃、敵潜水艦の攻撃を受けて沈没した元徳島丸の司厨長が、調理の指導をしてくれるとの事で、本格的に献立を作るようになった。

調理も素人の兵隊よりも随分良くなり、私もやり甲斐のある仕事だと、いつしか思うようになっていた。

停泊場部隊では、移動部隊の世話をするのが仕事なので、兵隊の衣服から日用品まで全てを取り扱い、嗜好品や飲み物類の支給も行っていた。

事態の急変に備えて、いつも炊事場の倉庫の中には、酒やビール、サイダー類があり、他にも煙草や甘味品等のストック品まであり、いつなんどきでも間に合うように準備して置いてあった。

在庫品の数量は、毎日整理しておかないと、いつ監査があるのか分からないので、いつでも綺麗に整理整頓してあったのは、勿論の事であった。

そして、新しい炊事場が出来上がり、それまでのオレンジ色屋根の綺麗な宿舎が少し離れていて、不便でもあった。

そこで、井上軍曹と私の二人分の寝る場所を確保して貰い、新しく別に宿舎を作って貰ったのである。

南洋編 9 ~新しい献立~

2010年07月01日 | 人生航海
その後も穏やかな日々が続いたが、二ヶ月ぐらいが過ぎた頃に、主計局長と武市軍曹から話があると言われた。

新たに井上軍曹が、責任者となって炊事場を作るので、是非手伝って欲しいと頼んで来たのである。

井上軍曹は、上官である主計中尉に相談された時に、私の話が出て、本部の許可を得たうえで、私の移動を武市軍曹に頼んだとの事らしい。

結局、軍隊の事であった、私も命令と思う以外なく承知したのである。

そんなことで、私は、本部の事務員から、炊事の事務所に移動することになったのである。

それから、直ちに、現場を見る事にした。

班長からも話しを聞いていたが、もとは大きな倉庫で広かった。

私は、まず事務所を作って、冷蔵庫の設置を打診した。

早速、敵方だった軍関係者を調べて、放置してあった工場を探して、大型の冷蔵庫を見つけた。

そこで大勢の人夫を連れて、トラックに積んで帰ることにした。

だが、詳しく調べても、その大型冷蔵庫の操作方法が、誰にも解らないのである。

ガスと電気の併用で使用する業務用の大型冷蔵庫なのは解るのであるが、結局は、氷を入れて使用する事にしたのである。

このような不便さもあったが、皆が便利に作業出来る様にして、スラバヤの停泊場部隊の新しい炊事班が出来上がったのである。

炊事軍曹のうえに、主計将校と軍医がいて、献立表の書類には、その二人の将校の承認印が必要であった。

私は、毎日の献立表を書き終えると、必ず、両将校の印を貰いに行くことになった。