今日の新聞より抜粋します。
東大教授の上野千鶴子さんへのインタビュー記事です。聞き手は、秦融氏、後藤厚三氏です。
題して『家族依存の脱却を』
“「かつては家族の介護力が高かった」というのは神話でしかない。それが多くの専門家の共通認識だ。
~中略~
日本は1980年代まで、「家族は福祉の含み資産」といわれてきた。高齢者は家族に頼り切った老後を送ってきた。それが超高齢化、家族の脆弱化という二つの事情でもちこたえられなくなった。追い詰められた人たちが「姥捨て」「介護殺人」に至る事情は、責められない。
~中略~
家族構成の変化、家族自体の安定性も著しく損なわれてきている。結婚も一生ものではなくなった。
~中略~
家族の介護力は今後、ますます弱まっていくだろう。それなのに、現在の高齢者はあいかわらず家族依存が強く、家族に代わる代替ネットワークを持っていない。ここに一番の問題がある。
10年前に介護保険制度が生まれたのは、こうした流れの中で非常に大きな意味を持つ。
「介護は家族の責任」という常識にずっと支配され、寝たきりの高齢者を世間の目から隠すような社会で「介護は家族だけの責任ではない、第三者の手を借りていい、高齢者の福祉には公的な責任がある」ということを、国民的に合意することで、この制度ができたからだ。これを革命と言わずして何だろうか。
ただ、意識は現実の変化にあとから追いついた。介護の人手を家に入れるのは恥だという意識があったから。
家族研究の経験から、はっきり分かったことがある。危機が起きた時、家族は結束するより壊れる傾向がより強い。家族の結束が美談になるのは、それがめったにないことだからだ。
~後略~”
今、我が家でも同様な問題が起こってます。
介護に対する考え方は人それぞれ。そのどれが正解でどれが間違いなのかは、決して判断出来ないと思います。
家族構成、家族の現況、被介護者の状況、経済状態、etc.
それらの要因が様々に組み合わさるわけですから、一つ一つ、絶対に同じ介護状況は無いのです。
だから、比較は出来ても、こちらに合う対処法がもう一つの場合に合うとは言えない。
それが、どーしてわからないのでしょう。
判らない人が多すぎる。
そして、何より、今でも根強く残る家族以外での介護方法への偏見。
それが悪いと言うのではありません。
それにこだわるのが、”善”で、そうじゃないのが”悪”或いは”怠慢”とみなすのをやめてほしいと思うんです。
例えて言うなら、洗濯機が無かった時代の人が、現代の私たちに手で洗えと言ってるようなもの。自分たちは、そうしてきたのだから・・・と。そのくらい我慢して当たり前・・・と。
今の家族を壊してまで介護するのが親孝行なのか。
何もわからなくなってる親の毎回変わる意思に沿うのが孝行なのか。
単なる自己満足にしか、私には思えません。
直接介護にあたる人の意思で進めてはいけないのか。
介護方針を決める時、基準となるのは、被介護者の状況と介護者の介護力なんじゃないでしょうか。
何故、直接かかわらない人の自己満足に付き合わなきゃいけないでしょう。
上野教授のインタビューの最後に、こうあります。
“変わってしまった社会や家族の現実から目を背けてはいけない。冷静に認識して対応策を考えていくしか、解決の道はない。”
自分の手から離れた介護に、ピントの外れた指示は出さないでほしいです。