先日の記事に挙げた上野教授のインタビューは、三回にわたって掲載される模様。
だもんで、今日も、その続編をば、ピックアップしました
本日は≪進む『選択縁』社会≫ということについて。
“私は都市社会が悪いとは思わない。都市とは、プライバシーのまったくない相互監視のムラ社会から逃げてきた人たちが、望んでつくりあげてきたものだ。関西弁で言うと「気の合わん隣と仲良うせんかてよろしい」という社会が、都市だ。
最近「無縁」という言葉がはやっているが、中世史家の故網野善彦さんがご健在なら、さぞお怒りになっただろう。ベストセラーになった著書の「無縁・公界・楽」にあるように、土地に縛り付けられた村落共同体などとは離れたところ、例えば公権力が及ばない市の立つ場所や神社仏閣の中などで、中世の人たちが築いた関係、それが無縁という名のえにしだ。字面通り「縁が無い」ことを意味するわけではない。
無縁の反対語は有縁。わけあってつくる血縁、地縁、社縁などのえにしは、降りるに降りられない。今、それに代わるえにしが社会にできつつある。私はそれを「選択縁」と呼んでいる。
選択縁は、脱血縁、脱地縁、脱社縁の友人同士のネットワーク。加入脱退が自由で、強制力がなく、まるごとのコミットを要求しない。そういうネットワークを持つ高齢者の幸福度が高いことは、研究結果からも分かっている。
選択縁を持ち、老後をソフトランディングしている高齢者は圧倒的に女性が多い。先行的に選択縁をつくり上げたのは女性たち。私はその集団を「女縁」と名付けて調査した。
選択縁づくりのキーパーソンで一番多いのは、転勤族の妻だった。彼女たちは地域社会の「まれびと」(=よそもの)で、夫のような社縁もない。孤立して追い詰められているからこそ、PTAや生協の活動で実践力をつけ、血縁・地縁に代替するネットワークを築いていった。それが老後に切れ目なくつながっている。
多くの男性に選択縁のニーズが生まれるのは定年後。準備期間が少ない。しかもそれまで属してきた会社組織のように、タテ関係の強い軍事組織的な目的遂行型の集団と、選択縁の集団とは社会化のしかたが違う。男性が持っているノウハウとスキルがなかなか通用しない。そこに難しさがある。
今は過渡期。本人たちの予想を裏切る超高齢化が「死ぬに死ねない老後」を生んでいる。結婚してもしなくても、長生きすれば最期は「おひとりさま」、と予期しなければならない。だが、私たちはすでに高齢期を生きている「おひとりさま」をお手本として、学習できる。このことは大きい。
選択縁への参加が高齢者の幸福度を高めるのは確かだ。ただし、そのことと介護資源とは別。友人に下の世話はさせられない。
「介護はプロに、愛情は家族に」といわれてきたように、家族が果たしてきた機能、つまり「世話や依存」と「情緒的な満足」という二つの機能を分離していく必要がある。
家族や友人を大切にしていくのはあたりまえ。関係を保っていくためにはつね日ごろからの努力を怠ってはいけない。”
(・・・内容が、ちょっと省略出来ない感じだったので、原文そのまま載せました)
上野教授の話全てを肯定する私じゃありませんが、でも、常日頃心の奥で考えていたけど、口に出しては憚りが・・・と思っていた事を言い当てられた気分です。
疲労困憊して、最小単位の家族の存在すら危なくなりそうになりながらも、それでも、やらなきゃいけないことなのか。
プロに任せることは、いけないことなのか。
だけど、最近思うのは、介護事業所で手に余るようになった時、どーすればよいのか・・・ということ。
見放されてしまうといった事も耳にします。行き場が無くなったら、もう、行き着く所は家・・・なのでしょうか。
「介護はプロに」・・・。この言葉、信じて良いのでしょうか。