【高市早苗氏】:「捏造発言」で見落とされる真の問題、野党が政局含みで動けば本末転倒
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【高市早苗氏】:「捏造発言」で見落とされる真の問題、野党が政局含みで動けば本末転倒
放送法における「政治的公平」の解釈変更を巡る問題で、渦中にある高市早苗氏が「流出した文書は捏造だ」という趣旨の発言をし、議論を呼んでいる。文書の真贋や高市氏の去就に世間の注目が集まっているが、それらは本質的な問題ではない。真に問題視すべきは、15年の解釈変更を機に、当時の安倍政権に批判的なキャスターが降板するなどメディアの体制が変わったことだ。この機会に、自由民主主義社会における「言論の自由」の在り方を今一度考えてみたい。(立命館大学政策科学部教授 上久保誠人)<button class="sc-SxrYz hqjiZN" data-cl-params="_cl_vmodule:detail;_cl_link:zoom;" data-cl_cl_index="38"></button><button class="sc-SxrYz hqjiZN" data-cl-params="_cl_vmodule:detail;_cl_link:zoom;" data-cl_cl_index="38"></button>
Photo:JIJI((c)diamond)
●「政治的公平」を巡る問題は 「森友学園」ほどの大政局にはならない
放送法における「政治的公平」の解釈に関する、総務省の行政文書(以下、総務省文書)が流出した。
総務省文書には、2014~15年に第2次安倍晋三政権下で交わされた「政治的公平」の解釈変更を巡るやりとりが記載されている。
この文書によると、当時の首相補佐官・礒崎陽輔氏が、「政治的公平」の解釈を変更するよう総務省に働きかけていた。その過程で、当時の安倍晋三首相と高市早苗総務相(現・経済安全保障担当相)が電話で話す場面もあったという。
その真偽が議論の的になっているのは周知の通りだが、高市氏が15年に国会答弁で「ひとつの番組のみでも政治的公平に反する場合がある」と発言したのは事実だ。同氏は後に「違反を繰り返せば停波を命じることもある」とも述べていた。
高市氏によるこれらの発言は、「政治的公平は、ひとつの番組単位ではなく、放送事業者の番組全体を見て判断すべきもの」という、従来の政府見解とは異なるものだった。
このため、野党などからは「官邸側が、批判的な報道番組に圧力をかけようとしたのでは」「高市氏は官邸側の意向をくみ、放送法の解釈を変えたのでは」などと指摘されている。
だが高市氏は、文書内の自身に関する記述を「捏造(ねつぞう)だ」と完全否定。捏造でなかったならば、閣僚や議員を辞職する考えを示した。
高市氏が辞職に言及したことは、かつて安倍元首相が在任時に「自分や妻が少しでも関わっていたら、首相・議員を辞職する」と発言して混乱を招いた「森友学園問題」(本連載第172回)を想起させるという指摘がある。
だが、放送法を巡る問題は、安倍政権の政権基盤を動揺させた森友学園問題のような「大政局」にはならないだろう。
●安倍元首相の後ろ盾を失い 孤立する高市氏
高市氏は岸田文雄政権の一閣僚にすぎない。仮に総務省文書が「捏造ではなかった」ことが証明され、高市氏が閣僚・議員を辞職したとしても、岸田政権の命運に関わることにはならない。
野党側も、安倍政権下の疑惑を「批判の種」にして、岸田政権を追い込むことは難しいといえる。
岸田現首相は、高市氏の辞表を淡々と受け取り、後任の経済安保相を決めるだけだろう。岸田氏は安倍政権当時、この問題に直接関わっていたわけではなく「他人事」だ。
自民党や官僚組織も、高市氏を積極的に守ろうとはしていない印象だ。高市氏は一時、総務相在任時に「大臣レク」を受けたことを強く否定していたが、総務省側はレクの実施を否定しなかった。
さらに、松本剛明・現総務相は、立憲民主党からのヒアリングで「一般論として、捏造した内容を行政文書にすることがあり得るか」と問われた際に「捏造に関わる者はいないと信じたい」と答えたという。高市氏の国会答弁を支持したとはいえない回答だ。
「森友学園問題」の際、財務省が公文書の書き換えをしてまで、安倍元首相を守ろうとしたのと対照的である。
とはいえ、高市氏が類いまれな手腕を持つ、経験豊富な政治家であることは疑いない。
同氏は21年9月、自民党総裁選に立候補。敗れたものの、堂々たる将来の総裁候補として台頭した(第285回・p3)。岸田政権では政調会長・経済安保相の要職を務めてきた。
ただし、高市氏は無派閥だ。元々は安倍派(清和会)に所属していたが、11年に離脱している。その後も安倍元首相が高市氏の「後ろ盾」となっていたものの、安倍派内には高市氏に根強く反発する議員が存在してきた。
安倍元首相が亡くなった今、高市氏を守ろうとする人は官僚組織にも自民党にも少なく、高市氏は孤立している印象だ。
政権をトカゲに例えるならば、高市氏は岸田政権というトカゲのしっぽでしかない。しっぽを切りさえすれば、本体は無事だ。
にもかかわらず、高市氏は自らがトカゲの本体になり得ると考えたのだろうか。
もし総務省文書の内容が事実であれば、強く否定した高市氏は虚偽答弁を行ったことになる。かつて放送法の解釈を変えるような発言をしたことについても、さらなる批判が降りかかるだろう。
そうした立ち位置にもかかわらず、軽々しく「辞任」を口走ったことには疑問が残る。仲間が少ない高市氏が、「総理総裁候補になれたのは自らの力だ」「自分はトカゲの本体だ」と過信したのであれば、間違いだと言わざるを得ない。
●「政治的公平」の解釈変更を機に メディアの在り方が変わったのは事実
さて、昨今の世論を見ていると、「総務省文書が捏造か否か」「高市氏が辞任するか否か」に関心が集まっている印象だ。だが、それは本質的な問題ではない。
筆者が問題視しているのは、「政治的公平」の解釈変更を機に、メディアの在り方が少なからず変わったことだ。
15年に高市氏が国会で新解釈について発言し、それに基づく政府統一見解がまとめられた後、各放送局では政権に批判的なキャスターの降板が相次いだ。 メディア各社は真相を明かしていないが、自民党からの圧力を受けて「忖度(そんたく)」が働き、踏み込んだ政権批判を避けたように思えてならない。
朝日新聞デジタルに掲載された記事『高市氏の放送法答弁 テレビ現場に与えた自民党への「萎縮と忖度」』では、テレビ朝日に27年間在籍して『報道ステーション』などのディレクターを務めた鎮目博道氏が、次のように語っている。
「当時の地上波のテレビ局は政治、特に自民党に対して忖度し、安保法制を巡る報道も萎縮していたと感じています」
文書の真偽はどうあれ、放送法の解釈変更が「報道の自由」や「言論の自由」に深刻な事態をもたらしたのは確実だといえよう。本質的な問題は、ここにあるのではないか。
筆者は野党に問いたい。「総務省文書の正当性を証明する」「高市氏を辞任に追い込む」といった「政局的な思惑」で動くのでは本末転倒だ。「政治的公平」の解釈変更を撤回するよう、自民党に今以上に強く迫るべきではないか。
もちろん、誹謗中傷やヘイトスピーチは許されるべきではない。だが、報道機関による健全な政権批判は「言論の自由」の一環であり、尊重されるべきだ。自民党にそう訴えかけてほしい。
だが歴史をひもとくと、「自民党などの保守派は批判を許さず、リベラル派は批判に寛容である」とは言い切れないのが難しいところだ。
●リベラル派にとっても 「批判の受容」は難しい
自民党ではかつて、「批判されるのが仕事」と割り切り、政敵を「抵抗勢力」と呼んで支持率向上に利用した小泉純一郎元首相など、批判に対しておおらかなトップが率いた時代もあった。
むしろ、リベラル派と呼ばれる人たちのほうが、自らへの批判に厳しい場合もある(第112回)。
例えば日本共産党は、「言論の自由」に依拠した政治的主張に熱心な組織だ。自民党政権への批判は徹底していて、とどまることがない。しかし、その日本共産党は、志位和夫委員長への批判を絶対に許さない。
実は同党では、20年超にわたる志位委員長の在任期間中に、党員数や機関紙の購読者数が大幅に減少した。 一部の党員は、このことを理由に、志位氏に対して「責任を取って辞めるべきだ」と批判したり、党首公選制の導入を訴えたりした。そうした党員たちは、続々と除名処分の憂き目に遭った。
また、リベラル派が大多数を占める「日本学術会議」は、菅義偉政権が学術会議の新会員候補者6人を任命から除外したことに対して「学問の自由の侵害」だと抗議してきた。
一方で、学術会議は、学者に対しては学問の自由を制限するような行動をしてきた。
この連載では、学者たちが集って「学問の自由」「言論の自由」「思想信条の自由」を守る府であるはずの大学でさえ、自由な言論がやりづらい「空気」がまん延していると指摘したことがある(第255回)。
例えば17年3月24日、学術会議は「軍事的安全保障研究に関する声明」を発表した。内容は、「軍事的安全保障研究とみなされる可能性のある研究について、その目的、方法、応用が妥当かという観点から技術的倫理的に審査する制度を設ける」ことなどだ。
その後、全国の各大学・学会で「軍学共同」反対運動や「軍事研究」抗議活動が活発化した。国の防衛関連技術や「軍事転用が可能な民生技術」の研究分野について、教員の応募を禁止する動きも続出した。
今でも「軍事研究」反対のビラが、私のような大学教員の郵便受けによく入っている。私はまったく気にしないが、若手はそれだけでも萎縮してしまうだろう。
現在、科学研究の分野では、軍事と民生をはっきり分けるのは困難だ。だが、さまざまな学問領域で先端を走るべき若手の学者たちが、萎縮して自由に研究をできず、意見を言えなくなっている。
岸田政権が「防衛増税」の実現に動く今も、軍事研究に反対するビラは増えている。学術会議からの静かな圧力が、学問の現場でさらに拡大しているのだ。
その結果、より自由な研究環境を求める優秀な若手は、日本に愛想をつかして海外に流出してしまっている。
要するに、学術会議は政府に対して「学問の自由」を主張しながら、内部では「学問の自由」を抑え、批判を許さない態度を取っているのだ。
●報道における「政治的公平」の意味を もう一度問い直すべき
話題がやや脱線したが、日本では保守・リベラルを問わず「自由」を都合よく解釈し、言いたいことは存分に主張する一方、自らへの批判を許さない組織が多いのだ。
野党には「総務省文書の正当性」や「高市氏の進退問題」ばかりに目を向けるのではなく、自らがこうした風土に陥らないよう、自浄作用も働かせてほしいところである。
海外に目を転じれば、中国、ロシアや新興国などに広がる「権威主義政権」は、権力への批判を封じ込めるのに必死だ。自らの主張は言いたい放題だが、自らの失敗は絶対に認めないし、批判を絶対に許さない(第321回)。
権威主義社会では、権力者の間違いを正すには、多くの人が傷つかねばならない。最悪の場合は「革命」を必要とする。
一方、日本のような自由民主主義社会は元々、自由かつオープンな環境で、お互いに批判し合い、間違いを修正しながら発展していける社会だったはずだ(第299回)。
権威主義社会と比べると、言論の自由の下に、選挙などの民主的なプロセスで間違いを正せる自由民主主義社会の健全性は明らかだ。
報道における「政治的公平」とは、公平性を盾に自らへの批判を封じ込めることではなく、「公平に批判する自由」を尊重することではないか。このことが自由闊達な社会の発展にとって重要であると、筆者は考える。
元稿:ダイヤモンド社 online 主要ニュース 政治・経済・時事 【政局・総務省・放送法における「政治的公平」の解釈変更を巡る問題・担当:上久保誠人】 2023年03月21日 06:01:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。