《社説①・01.14》:阪神大震災30年 悲しみ繰り返さぬために
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:《社説①・01.04》:阪神大震災30年 悲しみ繰り返さぬために
神戸市中央区の「人と防災未来センター」は、市民や行政から寄せられた約20万点に上る阪神大震災の資料を所蔵、展示する。今年最初の開館日だった今月4日、子ども連れが目についた。
線路の上をたくさんの人が黙々と歩く震災直後の写真を指さして、父親が娘に話しかけていた。「パパが10歳の時、みんなああして歩いたんやで」
「電車、通ってなかったん?」と聞き返す娘に、父親が答える。「大きな地震で止まってしもた。ふつうに電車が走ってるって、とってもありがたいことなんや」
この日、館内で同じような光景をいくつか見かけた。
17日で、あの日から30年がたつ。観測史上初の震度7を150万人都市の神戸などで記録。死者6434人、行方不明者3人を数え、25万棟近くが全半壊した。
その後、震度7の地震は、昨年の能登半島地震まで6回も起きた。その度に大きな被害が伝わり、備えの大切さが繰り返される。阪神大震災の教訓は生かされているのだろうか。
■思い込みの果て
当時、被災した人たちは異口同音に「関西は大地震がないと思っていた」と言った。根拠のない思い込みが備えをおろそかにし対策の失敗を招いたと、兵庫県立大大学院教授の阪本真由美さんは、著書「阪神・淡路大震災から私たちは何を学んだか」で指摘する。
災害対応の主体となる自治体は職員が被災し、機能不全に陥った。消防力は足りず、他地域からの応援隊もホースの規格と消火栓が合わなくて活動ができない。倒壊した家屋からの救出は居合わせた住民に頼るしかなかった。
避難所も足りず、自治体の指定場所だけでなく公園や空き地で多くの人が身を寄せ合う。避難所の運営は、住民や教職員の自発的な取り組みに任された。
避難生活は過酷だった。体育館で雑魚寝。食料も水も不足し、断水でトイレが使えない。感染症も流行した。生活環境の悪化で疲労やストレスがたまり、多くの災害関連死につながった。
仮設住宅に移行しても問題が起きる。生活が困難な人の入居を優先させたために、地域の絆が断たれた。誰にも気づかれずに自ら命を絶ったり病気で亡くなったりする「孤独死」が相次ぐ。復興住宅に移っても、高齢化が進んで孤立が深まった。
被災地の30年を追うと、現場任せでしのいできた日本の災害対応のありようが浮かぶ。
■関連死をなくせ
その後、初動の人命救助は連携が進んだ。全国の消防や警察が広域で緊急援助隊を組み、活動できるよう体制が整備された。医療関係者による災害派遣医療チーム(DMAT)も生まれた。
今も課題なのは助かった命を守る支援のあり方だ。
30年間で自治体が認定した災害関連死は少なくとも5456人に上る。熊本地震や能登半島地震では直接死を上回った。
避難所の環境改善が進まず、自宅や車中に避難する人に必要な支援が行き届いていない証しだ。避難所の運営や、民間ボランティアを生かす仕組みづくりの負担が、今も地元に重くのしかかる。
政府はようやく、自治体に向けた避難所運営の指針に、被災者の権利保護を提唱し最低限の設備を定めた国際基準を反映させるよう動き出した。「防災庁」の設置を視野に態勢強化も図る。
ただ、国に権限が集中して指示が一方的になり、現場が混乱したり人権が抑え込まれたりすることがあってはならない。
自治体と協力して支援の仕組みを素早く構築し、物資や人材、財政面でしっかりと支えることが求められる。そのための意思疎通や人材育成にも、日頃から積極的に関わっていくべきだろう。
■日常に取り込む
時間の経過とともに懸念されるのが、防災意識の低下だ。
兵庫県が1年前に実施した県民モニターアンケートでも、8割が震災を経験していながら、家具の固定や携帯トイレの備蓄をしている人は、いずれも4割台だった。
備えの大切さは分かっていても、お金や時間の余裕がなかったり、すぐに手をつける必要性を感じなかったりする人は多い。
そこで注目されるのが「フェーズフリー」という考え方だ。特別な備えを用意するのではなく普段から使うものやサービスを非常時にも役立てるように変える。そんな発想で、計量容器にも使える目盛りがついた紙コップなどが開発されている。
近所とのあいさつも、万が一の助け合いになると考えればフェーズフリーだろう。そんな目で暮らしや社会を見直せば、日常でもできる防災の気づきにつながる。信州でも取り組みを広げたい。
温暖化で豪雨など自然災害が多発し、南海トラフ巨大地震が懸念される時だ。悲しみを繰り返さないために、阪神大震災から学ぶことは重みを増している。
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